三国志には諸葛亮や荀彧、周瑜など有名で逸話の多い人物がいっぱいいます。しかし三国志の物語はこのような有名な人物たちだけで成り立っているわけではありません。
ほとんど知っている人がいないような人物たちも活躍し、三国志の歴史が成り立っているのです。今回はこの三国志のマイナーと呼ばれる人物の一人・李粛を紹介したいと思います。いったい彼は何をした人物なのでしょうか。
若いころから人物評論家として有名な李粛
李粛は若いころから人物評論家として有名な人物でした。彼は自分の元を訪れた人物と議論を盛んに行い、その人物の評価を行っていました。李粛が評価した人物はほとんど例外なく優秀な人物ばかりで、次々に官へ就職していきます。優秀な人物を紹介し続けた李粛はどのような形で人物評価をしていったのでしょうか。
李粛の人物評価の方法は?
まず李粛は自分で人物の評価ランクを決めます。その後李粛は自分の元で議論を行った人に対して、自分が決めた評価ランク内に当てはめて人物の評価をしていたそうです。李粛の評価ランクはほとんど的を外すことなく、多くの人が彼の人物評価ランクを信用し、支持していたそうです。
こうして李粛の人物評価は多くの人のうわさとなり、孫権の耳にまで達することに。その後李粛は孫権に仕え、荊州で内政の仕事に携わり、功績を残しています。内政で実績を残した李粛に評価された人物には、どのような人がいたのでしょうか。
宰相の器があると評価した孟宗
李粛は人物評価を行う傍ら、塾を開いて学問を教えていました。李粛は門下生の中で気になる人物を発見し、彼へ「君は将来、三公の位になる器を持っている」と評価した人がいました。
李粛に高い評価を受けた人物は孟宗と言う人物です。彼はとってもお母さんを大切にした人で、あるエピソードが残っています。孟宗は李粛の塾を卒業した後、小役人として孫呉に仕えますが、薄給だったためボロボロの家に母と二人で住んでいました。ある日大雨が降って雨漏りしてしまいます。
すると孟宗は泣きながら「こんなボロボロな家にすませてしまって申し訳ありません」と母へ謝ったそうです。またこのようなエピソードも残っています。孟宗の母は筍が好きでした。
そのため孟宗は筍が生える時期ではない冬に竹林へ入って、「筍が欲しいのでください」と竹林へお願いします。すると竹林から筍がいっぱい生えてきたため、母親へ筍を食べさせることが出来たそうです。
後に日本へ輸入された植物・孟宗竹の言葉の由来になったエピソードです。このように孟宗は母に尽くした親孝行者でした。その後孟宗は孫亮の時代に光録勲へ出世し、孫休の時代には官吏を監察する御史大夫へ昇進します。
孫晧の時代には司空へ
孟宗は孫亮・孫休時代で実績を残します。その後孟宗は孫晧が皇帝になると官職の中でもトップクラスにあたる三公の一つ・司空の位へ出世。こうして孟宗は国政を担当することになりますが、孫晧の暴虐な振る舞いを矯正することができず、孫呉の国家の未来を憂いながら、271年に亡くなってしまいます。
孟宗は国家の国政を担う三公の位へのぼり、李粛の評価が的中していた事がお分かりになったと思います。
三国志ライター黒田レンの独り言
李粛の人物評価は多くの人に認められ、彼の政治手腕は多くの民衆を喜ばせていました。
そのため李粛が亡くなった際、多くの人物が彼の死を悼んだそうです。更に李粛と面識が無い人も彼が亡くなった事を知ると悲しんだそうです。李粛はマイナーな人物ですが、ただの人物評価家じゃなく、多くの人から慕われていた徳の高い人物だったとも言えます。
■参考文献 正史三国志呉書など
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