戦いにおいて最も重要なのは、まず戦わないようにすること。そう「孫子」では語られています。
しかしその一方で戦いがどうしても避けられないなら全力でやれ、とも書かれています。その戦いの中で大事なことは色々とありますが、その中で今回注目したいのは夷陵の戦いでの陣形。
この陣形には実は大きな問題があった…と言われていますが、一体どこが問題だったのか見ていきましょう。
夷陵の戦いでの陣形は「長蛇の陣」
夷陵の戦いでの蜀軍の陣形は「長蛇の陣」と言われるものです。これは蜀から長く補給路を繋いで戦線が長くなった、というだけでなく、戦術的な面もちゃんとあります。
まず前方の部隊が攻撃されたら後方部隊が救援に向かい、中央部分が攻撃されたら前と後ろから救援に、後ろが攻撃されたら前方部隊が救援に向かうという、大まかに言うと三部隊に別れてそれぞれ応じた戦いをするという、幅広く敵に相対するという陣形です。臨機応変に戦える陣形ですね。
江陵、夷陵、夷道と多方面の呉軍に相対するための陣形だと言えるでしょう。もちろん補給路もしっかりと後方で確保。ここまでを見ると、この陣形はそこまで悪いとは思えませんよね。
曹丕はこの陣形の弱点を見抜いていた?
しかしこの劉備の陣形を聞くなり、それ以上は聞く必要なし、と判断した人物がいます。それこそ魏の曹丕、この時は既に魏皇帝となっていた人物です。曹丕は部下の報告を聞くなり劉備の敗北を悟って席を立ち、そして「劉備は戦を知らぬ」と言ったと言われています。
これはどこまで本当か分からない逸話ですが、曹丕の戦の結果を見るとそこまで見破れるほど曹丕が戦上手だったかどうかは…コホン。ともあれこれは聡明な人物であればすぐに弱点を見破れるような状態であったと言うことでしょう。
多方面に広がってしまった陣形、手間取り過ぎた城攻め
夷陵の戦いで、蜀軍は夷道にある居城を責めます。この夷道を守っていたのは孫桓。この孫桓もまた名将でありますが、孫桓は呉の武将たちにとってただ味方と言うだけではありません。
孫桓は孫一門、つまり呉のトップである孫権の身内なのです。これを万が一にも殺されたり、捕まえられたりしたら一大事です。
しかし陸遜は救援要請を無視。ここで他の武将たちに罵倒されますが、陸遜は「孫桓殿は優秀だから」と涼しいお顔。
ここで孫桓の居城を落とすべく蜀は兵を分けますが、そして戦い続けることなんと4か月。この間ずっと夷道を守り続けていた孫桓はこの時26歳、若いながら優秀な武将であったことが窺い知れます。
動かない戦況に蜀軍はすっかりダレてきてしまいますが…そこに仕掛けられたのが陸遜による奇襲火計。持久戦ですっかり勢いを失い、長い期間遠征で出てきていることからすっかり士気も低下気味。
そんな中で補給路が焼かれた、え、明日からのご飯どうなるの?深夜に行われた火計による燃えていく補給拠点は、さぞや蜀軍に良く見えて絶望を与えたことでしょう。そしてここから、蜀軍の絶望は加速していきます。
奇襲から各個撃破をされてしまう
劉備が用いていた陣形は、長蛇の陣。長い蛇のように幅広く臨機応変に敵に当たりますが、逆を言えば幅広すぎる兵は密集しておらず、一つ一つを素早く各個撃破されてしまうと弱いという弱点もあります。別の隊が戦局を見極めて攻撃された時に素早くその攻撃されている陣の位置へと救援に向かう、それこそが長蛇の陣の目的です。
ですが奇襲によって混乱している状態で、しかも士気も下がってやる気が下がってしまっている状態で、どうして戦局を冷静に見極められたでしょうか。一瞬でも混乱してしまえばそれは伝染し、混乱が混乱を招いて大パニックへと繋がります。そして陣の一部が崩れてしまえば、それはもう既に陣ではないのです。長い蛇は頭を、体を、そして尾と少しずつ体を潰されていってしまいました。
しかし心臓、つまり劉備だけはこの状況でも生き残り、白帝城まで撤退します。それでも心臓だけではどうしようもない、動かす肉体はもうありません。こうして劉備の引いた長蛇の陣は、呉軍に破られてしまったのでした。
三国志ライター センの独り言
夷陵の戦いで引かれた陣形、長蛇の陣は決しておかしな陣ではありません。
あの状態を維持することができればベストな陣形であると後年言われたでしょう。しかし色々な要因が絡み合い、劉備は夷陵で敗北してしまいました。それでも敗北という結果だけを見て夷陵の戦いの陣形は悪手であったとは言わずに、ではどうしたらを考えて三国志を楽しく考察して下さいね。
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