かつて曹操に息子にしたいとまで言わしめた孫権もその晩年の暴君ぶりはひどいものであったと言われています。彼はなぜ暴君と化してしまったのでしょうか?実は、数々の悲劇が孫権の心を蝕んでいたのでした。
孫慮の死、忍び寄る影
赤壁の戦いで名を馳せた孫権も、同盟を結んだ劉備や、窮地に追いやった曹操の当時の年齢を優に超すほど年を重ねました。
赤壁の戦いで活躍した英雄たちも、そのほとんどが孫権を置いて先に逝ってしまうほど、歳月は無慈悲に過ぎ去っていたのです。老いた孫権を残し、信頼していた息子・孫慮もあの世へ旅立ってしまいます。息子を失ってひどく心を痛めた孫権。そんな孫権の心の隙間にうまいこと入り込んだ者がありました。
佞臣・呂壱
呉には呂壱という者がいました。呂壱は所謂「チクリ魔」でした。たとえば、「右手を挙げて横断歩道を渡りましょう」という法律があったとします。
普通は、間違えて左手を挙げて横断歩道を渡った者を見かけても、「おいおい、お前手が反対だぞ」と口頭で注意するくらいで済むところを、呂壱はとんでもない罪を犯したかのように「あいつ、右手ではなく、左手を挙げて横断していました!即刻牢屋に入れるべきです! 他の者に示しがつきません!」と糾弾するような人物だったのです。
それだけならまだ「極端に真面目なのだな…」くらいで済ませられるかもしれません。しかし、呂壱は自分が嫌いな人の罪まであることないことでっち上げるとんでもない奴だったのです。ところが、弱っていた孫権はその呂壱を重用してしまいます。
離れてしまった家臣の心
皇太子・孫登や側近の重臣たちは呂壱を退けるよう何度も諫めますが、孫権は意固地になるばかり…。呉の現状を憂いた潘濬は自ら殺人の罪をかぶってまで呂壱の暗殺を目論見ます。ところが、それを嗅ぎ付けた呂壱に逃げられてしまいます。その後、「潘濬に続け!」と言わんばかりに、孫登や諸葛瑾、陸遜をはじめとする家臣たちが次々とその悪事の証拠を集めて孫権に上奏。
ようやく目が覚めた孫権は呂壱を処刑したのでした。孫権は意地になって無下に扱った家臣たちに申し訳なく思いながら、他に自分に誤りはないか、直すところはないかと尋ねて回ります。ところが、呂壱の一件で重臣たちの心は離れ、孫権に対して有効なアドバイスをしてくれる者は1人もいなくなっていたのでした。
皇太子・孫登の死、重臣・諸葛瑾の死
そんな彼を更なる不幸が襲います。今度はなんと、孫登が亡くなってしまったのです。最期のときまで国を想っていた孫登は、「私の死後は弟の孫和を皇太子としてください」と遺書を残していきました。
不幸は続くもので、同年には若い頃より呉に仕えていた功臣・諸葛瑾も亡くなってしまいます。孫権の心はますます弱っていったのでした。
喧嘩両成敗…!?二宮の変
孫登の遺書を読んだ孫権は、遺言通りに孫和を皇太子に立てます。これでしばらく呉も安泰かと思われましたが、孫和ではなくその弟の孫覇を皇太子にしたいと考えた臣下たちが暗躍。心が弱っていた孫権は孫覇派の押しの強さに負けて、孫覇を魯王に立てます。これにより孫和と孫覇の対立が激化。孫権はその状況を憂慮し、2人の仲を取り持とうとするもなかなかうまくいきません。心労が積もりに積もった孫権はとうとう病に倒れてしまいました。
孫和の母と不仲だった孫権の娘・孫魯班(全公主)は、この機会を逃す手はないと孫権を見舞い、次のように讒言します。
「孫和は見舞いもせずに妻の実家でいかにして孫覇を除こうかと策を巡らせています。その母親もまた父上の病を喜んでいるようです。」
これを聞いた孫権は孫和への愛情を枯らしてしまいます。孫権は孫和を皇太子の座からおろし、孫覇を皇太子に擁立しようかと考え始めたのでした。両陣営の対立は熾烈を極め、いよいよ孫権も決断を迫られます。孫権が選んだのは孫和か?孫覇か?なんと孫権は孫和から皇太子の位を剥奪、孫覇には自害を命ずるというとんでもない決断を下したのでした。
この件に関わった両陣営の臣たちも無実の者を含めて次々処刑。皇太子には7歳の孫亮が立てられ、二宮の変と称されるお家騒動はようやく終結を迎えました。
衰退の一途を辿った呉
孫権の死後、政治はますます乱れていきました。その後、呉は皇帝をとっかえひっかえして軌道修正をはかろうと試みましたが、結局政治を立て直すことは叶わず、ついには晋に飲み込まれてしまいます。もし、孫権の子どもたちが次々と死んでしまうようなことがなかったら、孫権がここまで暴走することはなかったのではないでしょうか。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
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