歴史に「if」は無いとは言いますが、やっぱりああだったら、こうだったらと考えずにはいられませんよね。特に『三国志』に関しては、そんな妄想を繰り広げずにはいられません。実は、唐代にも「『三国志』たられば」を詠んだ詩人がいたのでした。
「小杜」と称された杜牧
唐王朝も斜陽に差し掛かっていた頃、杜牧という詩人が誕生しました。王朝末期ということで、暗くて何だかか細い雰囲気の詩が世にはびこる中、彼は豪快でわかりやすく、奔放な詩を生み出し続けました。特に七言絶句に長けた杜牧は、杜甫が「老杜」と称されるのに対し、「小杜」と称されるようになります。
杜甫の詩は安史の乱に巻き込まれた激動の社会を描き切ったものが多いことから、その詩自体が歴史を描いているとして「詩史」と呼ばれていますが、杜牧の詩は「もし~だったら」と過去の歴史に自由に思いを馳せた「反実仮想詩」が多く、その自由な想像力が人々に高く評価されています。
杜牧が詠った「項羽たられば」
杜牧の詩で特に有名なのは、項羽の最期について詠った「烏江亭に題す」です。勝敗は兵家も事期せず羞を包み恥を忍ぶは是れ男児江東の子弟才俊多し捲土重来も未だ知るべからず垓下の戦いで劉邦に敗れ、烏江という長江の渡し場まで落ち延びた項羽。項羽はそこで亭長に江東に逃げるよう勧められますが、
「私はその昔、江東の若者を8千人も率いて長江を渡ったが、その若者たちは皆死んでしまった。江東の者たちへの面目が立たない。」と言って辞退します。杜牧は、もしも項羽が亭長の申し出を受けていたら、もう一度巻き返して劉邦と天下を争うこともできたかもしれない…と考えたのでした。
杜牧の「赤壁たられば」
妙に飾り立てた言葉を使わず、ストレートな表現で歴史の「たられば」を詠う杜牧。そんな彼は『三国志』のあの名場面である赤壁の戦いの「たられば」も詠い上げています。
「赤壁」
折戟は沙に沈みて未だ銷けず
自ずから磨洗を将って前朝を認む
東風周郎に便ぜずんば
銅雀春深くして二喬を鎖さん
前半では杜牧が見た唐代の赤壁の風景を描いています。折れた戟が一本、砂に埋もれているものの、その戟はいまだに朽ちてとけてはいない。その戟を拾い上げてすすいでみると、やはり過ぎ去った時代のものであると見分けがつく。杜牧は拾いあげた戟が三国時代のものであると推察し、赤壁の戦いの情景を思い浮かべます。
もしも東風が周瑜のために吹かなければ、曹操が妾達と愛を深める銅雀台に小喬・大喬の2人もまた閉じ込められてしまったことだろう。
連環の計を用いて曹操の大軍勢を打ち破ろうと考えた周瑜。敵にスパイを送り込んで船同士を結ばせ、火をつけて焼き払うというこの作戦は、風の向きに左右される一か八かの大勝負でした。決戦当日、周瑜の味方をするかのように東風が吹き、火は曹操の軍船をあっという間に焼き払ったのでした。しかし、もしも東風が吹かなかったら…。
呉の二大美女と称された孫策の妻であった大喬と周瑜の妻である小喬は2人揃って曹操の手に落ちていたことだろうと杜牧は想像を膨らませたのでした。
実は杜牧が訪れた赤壁はあの赤壁ではない!?
赤壁を訪れ、そこに落ちていた古い戟を拾って三国時代に思いを馳せた杜牧でしたが、実は、杜牧が訪れた赤壁はあの赤壁ではなかったそうです…。魏と呉の歴史的決戦が行われた赤壁は現在の湖北省蒲圻市の西北36kmあたりの長江南岸の赤壁山と称される岩山なのですが、杜牧が訪れた赤壁は湖北省黄岡市の赤鼻山だそう。
実はここを赤壁と勘違いしたのは杜牧だけではなく、唐宋八大家として有名な北宋の文人・蘇軾も「赤壁の賦」をここで詠んでいるようです…。なんとも紛らわしいこの場所なのですが、もしかしたら縦横無尽に思いを膨らませる杜牧のことですから、そこが赤壁ではないということはわかっていたものの、どんどん赤壁への思いが連想されていったのかもしれません。
魅力のたられば詩人・杜牧。もしかしたら後に編まれた『三国志演義』にもその影響を与えているかもしれませんよ…?
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