三国志の英雄の一人・董卓。董卓は涼州で役人になり、異民族達と時に戦を行い、時に仲良しながら、涼州の統治に励んでいました。
また董卓のイメージは太っちょさんだと思われがちですが、若かりし頃は馬に颯爽と乗り、弓矢をバシバシ放つことが出来るほどの力を持っていました。さて今回はこの董卓が殺害された原因と董卓殺害された事で、三国志にどのような影響を与えたのかご紹介しましょう。
正史三国志での董卓の評価は
董卓は洛陽で権力を握ってから若かりし頃と変わって暴虐な振る舞いを行っていきます。お金をいっぱい持っている商人から金品を強引に奪ったり、皇帝を蔑ろにするような事を行ったりと数えたらキリがありません。
そんな董卓ですが、正史三国志の作者・陳寿はどのように評価を下していたのでしょうか。
陳寿は董卓を「残忍で暴虐非道な人物だった。また記録上彼ほどの人物は歴史に存在しないであろう。」とかなり酷な評価をしています。これだけ酷な評価がされている董卓は殺害されても仕方ないのかもしれません。
董卓が殺害された原因はこれだ!!
陳寿から酷評された董卓。董卓は呂布に殺害されてしまいますが、どうして殺害されてしまったのでしょうか。
呂布が一人で董卓を殺害するとは思えません。なぜならば呂布は董卓の養子だったからです。では呂布は誰に命じられて董卓を殺害することになったのか。その理由を正史三国志から調査してみました。
その結果、董卓暗殺計画を考えたのは王允と士孫瑞の二人です。このふたりはどうやって董卓を殺害したのでしょうか。
董卓殺害計画の全貌
王允は呂布と同郷で何かと面倒を見て、丁重に扱っていました。呂布は王允が色々と面倒を見てくれるので、王允を信用するようになり、王允の家でご飯を食べたりする仲でした。
ある日呂布は王允の家に行って、董卓にされた仕打ちの愚痴を王允にこぼしていました。王允は呂布からこの話を聞くと士孫瑞と計画していた董卓暗殺計画に加わってもらうことを決断。
そして王允は呂布へ「董卓殺害する計画を立ててるんだけど、一緒にやらない」と勧誘します。呂布は「董卓はパパなんで殺害なんてできないっすよ」と断ります。しかし王允は「あなたと董卓は違う姓で、本当の親子じゃないでしょ。さらに今あなたは董卓から目をつけられて、いつ殺されてもおかしくないでしょ。」と脅しながら協力するように求めます。呂布は王允の説得を受け入れて董卓暗殺計画に参加。
その後二人は献帝の病気回復祝いが行われる事を知り、董卓がこの祝いに参加した時に殺害する事を決めます。
そして董卓が献帝のいる未央殿にやってきた時、呂布に合図を送り董卓を殺害してしまうのでした。
董卓が亡くなった事で三国志にどのような影響を与えたの??
董卓は洛陽を燃やして長安へ遷都した後、王允と士孫瑞の暗殺計画によって亡くなります。董卓が死んだ事で三国志の世界にどのような影響を与えたのでしょう。まず董卓が死んだ事で反董卓の群雄が各地で活発に動き始めることになり、ここから三国志の時代の幕開けとなったと言ってもいいと思います。
もし董卓が生きていれば、董卓の強大な軍事力に対抗するため、反董卓の群雄はいつ董卓の軍勢がやってきても迎撃できるように準備をして、しっかりとした協力関係を築いていました。
この事を考えれば董卓がいなくなったからこそ、三国志に登場する曹操や袁紹らは勢力拡大ができたと言えるでしょう。また董卓が死んだ事で後漢王朝が完全に形骸化したと言えるでしょう。
後漢王朝の皇帝・献帝は、董卓が生きている頃から居ないに等しい存在でしたが、一応国のトップに君臨。民衆達は非常に苦しい思いをしていましたが、各地の群雄が互いに戦う様相を見せず、まだ後漢王朝の統治機構は残っていました。
しかし董卓が亡くなった事で各地の群雄が相争うことになり、後漢王朝の権威がほとんどなくなってしまい、後漢王朝の統治機構も機能しなくなり、無いに等しい状態になってしまいます。ほかにも董卓が亡くなった事で色々な影響を三国志に与えていますが、代表的なのはこれくらいではないでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
三国志演義では董卓のお妾さんに王允の娘・貂蝉が選ばれ、董卓に可愛がられることになります。
しかし董卓の養子・呂布は貂蝉に一目ぼれし、貂蝉を密かに訪れていたそうです。呂布は董卓に貂蝉の事がバレたら殺されるかもしれないと考えているところに、王允の誘いがあり董卓殺害に関与することになります。
正史三国志でも呂布は董卓のお妾さんに手を出しており、このお妾さんが後年貂蝉と呼ばれることになるのです。
参考 ちくま学芸文庫 正史三国志魏書 井波律子・今鷹真訳など
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