「はじめての三国志」では、軍事以外はまるで駄目人間で、その癖やたらプレゼンしてくる中二病体質としてお馴染みの韓信(かんしん)ですが、史実の彼は、その軍事の才能ゆえに漢王朝の脅威になり、劉邦(りゅうほう)の妻の呂后(りょこう)の手で殺されてしまいます。
また、子孫は皆殺しにされたと言われますが、彼の子孫が生き残っていた、という伝説も存在するのです。
この記事の目次
絶頂から一転して転落する韓信
韓信は、劉邦が天下を統一すると、斉王から楚王に移転します。そこでは、五十余城を統治する独立した王でしたが、すぐにその才能を劉邦に危険視されるようになります。
その頃、韓信は無名時代からの親友、鐘離昧(しょうりばつ)を匿っていました。鐘離末は、項羽(こうう)の配下で劉邦を苦しめていたので劉邦は賞金を掛けてこれを捕らえて殺そうとしていたのです。韓信は、鐘離末を庇いますが、劉邦はこれを機に二人とも始末しようと軍を起こして楚を攻めようとします。困った韓信は、ここで鐘離末を説得し自害してくれるように頼みます。鐘離末は怒って言いました。
「劉邦は俺とお前が組んでいるのを恐れて手が出せないのだ!それをこんな事をするなら、次はお前の破滅だ!」
鐘離末は絶望して自殺したので、韓信は、その首を持って、劉邦に謝りますが、劉邦はなんだかんだと理由をつけて、韓信を楚王から外し、淮陰侯(わいいんこう)というただの貴族に落とします。淮陰侯は、韓信の故郷の淮陰県という小さな県一つを与えられた地位で、もちろん、楚王とは比較にならない小さな勢力でした。
やさぐれる韓信は、どんどんネガティブに
それまで、沢山の城を持ち、劉邦の家臣にも頭を下げられた韓信は、一気に、劉邦の家臣達と同格になってしまいました。プライドが高く、うぬぼれ屋の韓信は、この屈辱が耐えられず、いつも病と称して屋敷に閉じこもり、宮廷に呼ばれても出席しません。
ある時、樊噲(はんかい)が韓信の屋敷に来て、昔のように韓信を敬い、大王と呼び臣下の礼で尽くしても、死んだ魚のような目で笑い「けっ、、生き残って、お前なんかと同格になっちまったぜ」と自嘲して、毒を吐いたそうです。凄いかんじ悪いですが、そう、韓信はこういう中二病体質なんです。
韓信、同僚の陳豨を唆し謀反を起こす
しばらく後、陳豨(ちんき)という武将が、鉅鹿(きょろく)太守に任命されました。彼は韓信を尊敬していたので、任地に向かう途中に挨拶にきます。それを韓信は、引きとめて、策を授けました。
「なあ、陳豨、俺はもう劉邦には愛想が尽きた、、あいつは自分は何もせず、俺の才能で天下を取った癖に、俺を楚王から引きずり降ろし、あんな下っ端共と同じ地位にした。もう我慢ならぬ、お前は鉅鹿に入ったら、兵をまとめて乱を起こせ。劉邦がお前を討伐に出たら、ガラ空きの長安は俺が奪い取る!心配するな、そこまでやれば、劉邦を恨んでいる連中が各地で兵を挙げて、この世は乱世に逆戻りだ!!」
陳豨は、余ほど、韓信を尊敬していたのか、言われた通りに反乱を起こします。劉邦は信用していた陳豨が裏切ったので激怒して自ら兵を率いて長安を出ます。
韓信のプランは抜かりなかったが、、
全て、自分の思惑通りになり、韓信は内心、得意満面でした。後は、僅かな手勢で長安で反乱を起こし、囚人を解放して手勢にすれば、数万の兵力はすぐに手に入ります。
しかし、その時、予想外の事が起きました。韓信を恨んでいた下僕が、韓信の計画の一部始終を密告したのです。驚いた呂后は、相国の䔥何(しょうか)に対策を頼みます。すると、䔥何は、陳豨の反乱がすでに鎮圧されたという嘘の情報を長安中に流しました。そして、「遠征の成功を祝い、陛下に挨拶に来なさい」と各国の諸侯に命じたのです。韓信は䔥何の虚報に引っ掛かりました。
「あの役立たず、早速、しくじってんじゃねーよ・・」
韓信は、悔しがりましたが、いつも通り知らん顔して、病気だと言って、寝ていました。そこに䔥何から手紙がきたのです。
「各地の諸侯は、皆、参内して陛下に挨拶しています。あなたも疑いを晴らす為に、一度宮廷に来て下さい」
韓信、信じていた䔥何に裏切られ、殺される
韓信は、降格人事以来、猜疑心の塊になっていましたが、自分の才能を買い、大将軍に推挙してくれた䔥何だけは信頼していました。そこで、よく考えもせず、のこのこと宮廷に参内したのです。もちろん、韓信は、兵を伏せていた呂后に捕まり、その場で斬首されてしまいます、享年35歳でした。呂后は、そればかりでなく、韓信の三族まで皆殺しにして血筋は絶えます。
異説、䔥何が韓信の三歳の遺児を密かに匿った
ところが、明代の来元成(らいげんせい)が記した「樵(しょう)書」によるとこの時、韓信の一族は、全て根絶やしにされず、䔥何が、たった一人、韓信の三歳の息子を匿ったとされているのです。
劉邦に韓信を推挙した䔥何としては、韓信の謀反を見逃すのは、自分の身を危うくする行為でしたが、同時に、自身が推挙した韓信に対する、同情もあって、その遺児を匿う事で罪滅ぼしをはかります。やがて、成長した韓信の遺児は、韋(い)と氏を改めて、当時は独立国だった南越皇帝の趙佗(ちょうだ)の元へ逃亡したと言われています。
現在、韓信の子孫を称する人々は広西韋氏と名乗る
その韓信の子孫の人々は、現在も存続し、広西韋氏と名乗り、以下のように、韓信の子孫を名乗る方のブログもありました。気になる方はコンタクトを取ってみてはいかがですか?
春秋戦国ライターkawausoの独り言
韓信は、軍事の天才ですが、個性が強く、周囲を平気で見下すなどプライドが高い人物でした。それは、乱世では大目に見られても、治世になった瞬間に、許されない性質になっていったようです。でも、その逸話は、飄々として、どこか憎めないものが多くやはり後世の人も韓信の系統は滅んでいないという事にしたかったのでしょうね。
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