正史三国志を書いて有名になった陳寿(ちんじゅ)ですが、それ以前に蜀の人物達を書いた書物があったのを知っていますか。その書物の名は「季漢輔臣賛(きかんほしんさん)」と言われる蜀の臣下を褒め称えた書物を楊戯(ようぎ)という蜀の臣が書いております。さて彼はどのような人物であったのかを紹介していきたいと思います。
裁判官としての実力が認められる
蜀の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は楊戯の実力を認めており劉備(りゅうび)が亡くなると、彼を軍の裁判を司る「督軍従事(とくんじゅうじ)」の職を与えております。彼は孔明から軍の裁判を司る仕事を与えられると公平性を保つため、色々な所から情報を収集。彼が法廷に立つと公平さを保った裁判を行っていると蜀の群臣から評判を得ます。
公平性が認められどんどん出世する
孔明の死後、蒋琬(しょうえん)が孔明の後任になることが決定します。彼は楊戯を高く評価しており、ある時蒋琬の部下が「楊戯は殿の話を全く聞かないのは、非常に無礼ではありませんか。」と楊戯の悪い所を指摘します。すると蒋琬は部下に対して「彼が私の話を聞いて賛成の意見を述べれば、自分の心にうそをついてしまうことになる。かといって反対すれば私が述べた意見の非を明らかにしてしまう。だからあいつは何にも言わないのだ。」と部下に対して楊戯の考えを述べ、彼の悪口に対して一切気を留めませんでした。蒋琬は楊戯の公平に物事を見る能力を認め、彼を次々に出世させていきます。
バカにするような言葉を本人の前でぶつける
楊戯はその後、姜維(きょうい)と共に出陣することになります。そしてある所で野営を行った際、姜維は諸将を呼んで食事を取ります。楊戯は常日頃から姜維の事があまり好きではなかった為、姜維に向かってバカにするような言葉をさんざんぶつけます。姜維は苦い笑いしながら、何とか耐えておりました。その後姜維は楊戯が自分の事を諸将の前でバカにしたことを恨み、彼の官職を剥奪し、庶民に落とすよう上表します。劉禅は姜維の上表を認め、楊戯は庶民に落とされてしまいます。
評判が悪かった譙周を認める
蜀の学者である譙周(しょうしゅう)は学識だけに秀でて、政務に関連した仕事を行っていないことから蜀の人々からあんまり評判がよくありませんでした。しかし楊戯だけはみなと違う意見を持ち
「あの長身の男(譙周は約190㎝ほど身長があった)には、私達や子孫は及ばないだろう」と予言めいた評価を与えています。この楊戯の言葉通り、譙周は蜀が徹底抗戦か降伏かの二択に迫られた時、群臣の前で劉禅に降伏を進め彼の決断力が優れていたことが現れます。また彼の名は陳寿の師匠として有名になり、歴史に名を残すことになります。楊戯の予言めいた譙周に対する評価は当たる事になるのです。
「季漢輔臣賛」を記す
楊戯は蜀の人臣が活躍した事を記録に残そうと「季漢輔臣賛」を残します。彼はこの本を残す理由を「先帝(劉備の事)が行った実績と先帝に付き従った有能な臣下を記し、後世に残したいと思う」としています。この季漢輔臣賛は241年より前に書かれており、241年以降に亡くなった人物には評価を与えられない為、書き記してはいません。この季漢輔臣賛は陳寿が書いた正史「三国志」の蜀書の後ろに付けられている列伝となっています。
三国志ライター黒田廉の独り言
楊戯が季漢輔臣賛を書いた事で、蜀の武将たちがより詳細に知ることができます。陳寿が書いた正史「三国志」はどうしても晋や魏に重きを置かなくてはならない為、呉書や蜀書の内容に晋・魏が不利になるような記述は控えなくてはなりません。陳寿はこの季漢輔臣賛にあまり手を加えず、蜀書に漏れた武将達を楊戯が書いたそのままの状態で載せることで、自分の気持ちを季漢輔臣賛で代弁しております。