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菫卓が死んだ後、長安はどうなったの?

2015年2月14日


 

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呂布 バックブリーカー

 

西暦192年、献帝を擁し、横暴の限りを尽くした菫卓は、義理の息子である呂布の手によって、呆気なく暗殺されました。

 

貂蝉を奪い合う董卓と呂布

 

三国志演義では、美女貂蝉による連環の計で、正史では、菫卓の侍女に手を出した呂布が、菫卓に露見するのを恐れて、「その前に殺してしまえ」と唆した王允の暗殺計画に加担したと言われています。

 

王允

 

王允の計略は、上手く行ったかに見えましたが、この王允には政治的な欠陥が存在していました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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王允の誤った選択

王允と呂布

 

菫卓を憎悪するあまり、菫卓の一族ばかりか、生命が惜しいばかりに菫卓に従っていた有能な人物まで連座して嵐のように処刑したのです。長安の人々は、そんな王允の行き過ぎを嫌がるようになり、王允の政治力は、急速に衰えを見せていきます。さて、菫卓の配下には、涼州時代からの部下、李傕、郭汜がいました。

 

李傕、郭汜の反撃

李傕・郭汜祭り

 

菫卓が討たれた事を知った二人は、最初は王允に降伏しようと思いました、ところが、伝聞で知ったのは、王允の狂ったような親菫卓派の大粛清でした。

 

「こらあ、エライ事になった、、この調子では、俺達も打ち首だぞ」

「くそったれが、それなら、こっちから行ったろうじゃねいか!」

 

李カク(李傕)

 

李傕と郭汜は、破れかぶれで、長安に攻めのぼりました。長安は菫卓の暴政で疲弊しきり、呂布がいるとは言え、まともな防戦も出来ない状況にありました。

李カク(李傕)と郭汜

 

なんと、折角、菫卓の暴政から抜け出したと思った漢王朝は、今度は菫卓の残党である李傕・郭汜の支配下に入るのです。

 

李カク(李傕)、郭汜、王允

 

呂布は、菫卓の首を持って長安を脱出して袁術の下に逃げて行き、王允は李傕・郭汜に殺害されました。李傕と郭汜の政治は、菫卓に勝るとも劣らない酷いものでした。

 

李カク(李傕)、郭わい、献帝

 

両者は、長安を東と西に分割して治めていましたが、治安を維持するどころか、部下が略奪行為を行っても放置しました。

 

暴政の影響で長安は酷い事に

疫病が蔓延した村と民人

 

そのような暴政の為に、長安は食糧不足に陥り、価格が暴騰、市街には、餓死者や腐乱死体が溢れ、飢えた人々は、お互いに喰い合うという阿鼻叫喚の地獄絵図になったと言われます。

 

李カク(李傕)と郭汜

 

やがて、李傕と郭汜は、ささいな事から、お互いに争うようになります。この内乱でまた、長安の街を荒廃させ死体が溢れる事になります。

李カク(李傕)と郭汜

 

さて、同僚の張済という男の仲裁で仲直りした二人は、廃墟と化した長安を捨てて献帝を洛陽に戻そうという計画に賛同します。

 

徒歩の献帝を保護する楊奉

 

しかし、最初は、計画に同意した李傕と郭汜ですが、計画をした菫承楊奉、韓暹(かんせい)達が帝を独占するつもりではないか?と疑い、途中で献帝を長安に引き戻そうとします。

 

 

郭汜

 

もちろん、これには菫承も楊奉も反対し、戦闘が勃発、敗れた郭汜は、逃亡して李傕の下へ逃げのびてしまうのです。

 

李カク(李傕)、樊稠、韓遂

 

帝を失い、拠点の長安も疲弊した李傕・郭汜は勢いを失い西暦198年に、討伐されて処刑されます。

 

張済、献帝

 

李傕と郭汜の手から、献帝を奪還した菫承達ですが、醜い権力闘争は、揚奉、張済、菫承、韓暹の間でも続きます。

 

曹操の覇王の道の第一歩

現実主義曹操

 

献帝が洛陽に戻った事をいち早く知ったのが曹操でした。兗州を手に入れ、30万の青州兵を配下に加えた曹操は、「これぞ千載一遇の好機」と部下の曹洪を派遣して、献帝を迎えに寄こします。

 

袁術

 

菫承は当初、袁術と組んで、曹洪の進軍を阻止しますが、今度は、献帝を護衛してきた将軍の間で権力争いが勃発します。

 

曹操

 

菫承は、将軍達の中で、自分が優位に立つべく、一度は排除した曹操に接近しこれを洛陽に引き込んでいます。

 

献帝を保護する曹操

 

かくして曹操は、西暦196年に、献帝を保護下に入れます。荒廃した洛陽から、献帝を本拠地である許昌に移動させた曹操は、いよいよ、袁紹や、袁術、公孫瓚のような群雄を追いぬき、天下に号令を出せる立場に立ったのです。

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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