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馬陵の戦い(ばりょうのたたかい)ってどんな戦い?孫臏を有名にさせた戦

2016年8月31日


 

孫武 ゆるキャラ

 

孫武(そんぶ)は呉の名将・伍子胥(ごししょ)と組んで、超弱国であった呉の国を隆盛に導き、

春秋の五覇へと押し上げた軍師として知られています。

 

ビル・ゲイツ

 

また彼は現代にもファンがたくさんいる兵法書「孫氏の兵法書」を書いた人物として

非常に有名な人物です。

そして孫武の子孫である孫臏(そんぴん)も「孫臏兵法(そんぴんへいほう)」を書物に

しておりますが、彼はどのような活躍をしていたのでしょうか。

今回は孫臏と彼が有名になった馬陵の戦いのいきさつや馬陵の戦いについて、

詳しくご紹介したいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蘇秦・張儀の師に学ぶ

 

 

孫臏は斉の国で出身の人物です。彼は幼い時から学問に興味を持っており、

青年になると鬼谷(きこく)と言われる先生の元に弟子入りします。

この鬼谷と呼ばれる人物は各国に連衡(れんこう)と合従(がっしょう)の外交政策を説いた

蘇秦(そしん)張儀(ちょうぎ)の先生となる人物です。

孫臏は鬼谷の元に弟子入りすると外交術や謀略を学んでいきます。

この時彼は龐涓(ほうけん)と呼ばれる人物と仲良くなります、

彼と共に外交術と謀略術を学んでいき孫臏はこの学問に才能があるのか、

どんどん吸収していき、すぐに学ぶところを学びきってしまいます。

龐涓は孫臏がどんどん外交術や謀略術に長けていくのを傍で見ていると、

彼に嫉妬し始めます。

 

龐涓に仕事を斡旋してもらい魏へ向かう

 

 

孫臏は鬼谷の元を卒業すると、就活をしていなかった為

今後どうしようか龐涓に相談します。

龐涓は「俺はすでに魏の恵王の元で将軍になる内定をもらっているからな。

魏王に仕えて実績を積んだら、お前に役職を斡旋してやるよ」と約束します。

孫臏は非常に喜び「ありがとう龐涓。では楽しみに待っているよ」と固い約束をして、

分かれます。

そして数年後、孫臏の元に龐涓の使者がやってきます。

使者は「龐涓様がお呼びです。魏へ向かってくれますか。」と尋ねられます。

孫臏は龐涓の使者の言葉に快諾し、すぐに魏へ向かいます。

 

龐涓の罠に嵌ってしまう…

 

 

孫臏は魏へ到着すると龐涓と会う事ができませんでした。

しかし龐涓にあてがわれた宿舎に泊まり、彼が現れるのを気長に待ちます。

こうして数日龐涓を待ち続けついに彼から連絡を受け、龐涓の屋敷へと向かいますが、

彼の屋敷に着く事無くそのまま牢屋へぶち込まれてしまいます。

孫臏は自分がなぜ牢屋へぶち込まれているのか全く分からず、

牢屋の番人に「龐涓に会わせてくれ。」と懇願しますが、

番人は一切孫臏の言葉に耳を傾けることはありませんでした。

 

龐涓の嫉妬によって足を斬られてしまう

 

 

孫臏は牢屋にぶち込まれてから数日後、やっと外の世界に出ることができましたが、

役人と一緒でした。

そして彼はそのまま刑場へと連れていかれ両足を斬られてしまいます。

孫臏は激痛に耐え切れず、数分間大声をあげ続けると気絶してしまいます。

さらに役人は彼の両足を斬った後、

顔に「入れ墨」を入れて誰が見ても孫臏が罪人であることが分かるようにします。

龐涓は 役人から孫臏の両足を斬り、顔に入れ墨を入れて解き放った事を報告されると

口元に笑みを浮かべ大いに満足そうな顔を役人に向けます。

 

斉の使者と共に魏を脱出する

 

 

その後孫臏は刑場から出されて、そのまま放置されてしまいますが彼に幸運が訪れます。

彼に訪れた幸運とは魏に斉の使者がやって来た事です。

孫臏は自らの命がこのままでは終わってしまうと感じ、

命がけで斉の使者に会う事に成功し「お願いします。斉へ連れて行ってください。」と

懇願します。

斉の使者は孫臏の両足がない事と彼の必死の形相で懇願する姿に気圧され、

斉へ連れて帰る事にします。

孫臏は斉の使者が帰る時に、同行させてもらいなんとか魏の国から逃げることに、

成功します。

 

 

斉の将軍田忌の客として仕える

 

 

 

孫臏(そんぴん)は命からがら魏の国を脱出し、斉へ辿りつくことに成功。

彼は斉の国に到着すると足の傷を治すために自宅へ戻って、

療養することに専念します。

足の傷がある程度感知しますが、彼は歩きまわる事が出来ない為、

木で作った車椅子で移動することになります。

こうしてある程度の回復をした孫臏は、

斉の将軍である田忌(でんき)の客として仕えることになります。

田忌は孫臏を客として迎えますが、両足が無い者が役に立つのかどうか不安でしたが、

学識は豊富にあったため彼を客として迎えます。

 

田忌に誘われて競馬へ行く

 

 

田忌は斉(せいおう)に馬を三頭持って宮殿にくるように呼ばれます。

彼は孫臏に「これから王と王の息子達と一緒に競馬を行うから一緒に来ないか。」と

伝えられます。

すると孫臏は「わかりました。私も一緒に同行して将軍に勝利を与えましょう。」と

田忌に同行する事を快諾。

田忌は「よろしく頼む。」と一言伝えた後宮殿へ向かいます。

 

孫臏のアドバイスによって競馬で大勝利

 

 

二人は王と王の息子達と共に競馬が開催されます。

この時孫臏は田忌に「将軍。初めに強い馬が出馬されるのですか?」と尋ねます。

すると田忌は「そうだ。どうする軍師殿」とアドバイスを促すと、

孫臏は「では。この勝負はわざと負けましょう。

そのため一番弱い馬を出馬させてください。次の出馬は一番早い馬を出走させて、

最後は2番目に強い馬を走らせましょう。」とアドバイスを行います。

田忌は「それで勝つ事が出来るのか。」と尋ねられると

孫臏は「間違えなく大勝利で終わるでしょう」と断言。

こうして田忌は孫臏のいう通り馬を出走させていくと、2勝1敗で大勝利をおさめます。

もちろん競馬ですので、馬が一回走るごとにお金をかけており、

田忌はこの競馬の大勝利によって、数時間で一気に大金持ちとなります。

彼は孫臏のアドバイスが的確であった事を褒め彼を斉王に推挙。

そして斉王は孫臏から軍略を教えてもらい、

彼の教え方が非常にわかりやすかった事もあり、彼を兵法の師として仰ぐことになります。

 

魏の救援に田忌と共に向かう

 

 

孫臏は斉王に仕えて、軍略を色々と教えていく日々を過ごしていきます。

こうした日々を送っていた斉王の元へ趙から救援要請が来ます。

斉王は趙の危機を救うため、田忌と斉王の教師として活躍していた孫臏へ

趙の危機を救うように命令します。

 

囲魏救趙の計

 

 

田忌は孫臏を軍師に加えて趙へ進軍していきますが、

趙に向かう道の途中で田忌に「将軍。このまま趙へ行って魏軍に攻撃を仕掛けるよりは、

魏の首都である大梁(たいりょう)へ攻撃を仕掛けましょう。

そうすれば魏軍は趙の首都の包囲を解いて、退却することになりましょう。」と進言。

田忌は孫臏の進言を受け入れて斉軍を魏の首都へ向けて進軍させ、

魏の首都である大梁を包囲させます。

趙の首都を包囲していた魏軍は大梁が斉軍に包囲されている事を知ると急いで軍を

撤退させていきます。

田忌は魏軍が趙から撤退してきているとの報告を受けると大梁の包囲を解いて、

魏へ撤退してくる魏軍を桂陵(けいりょう)の地でボコボコにします。

こうして魏軍に大勝利をおさめた斉軍は意気揚々と斉へ撤退していきます。

この孫臏が使ったこの作戦は「囲魏救趙(いぎきゅうちょう)の計」と

言われる作戦で、兵法三十六計に記されております。

この計略は孫臏以降の武将達も戦に導入していく事になります。

この戦いで功績を遺した孫臏の名は斉の国で知られるようになり、

田忌からも絶大な信頼を得ることに成功します。

孫臏は桂陵の戦いに勝利した事で、

斉国にはなくてはならない軍師として王や田忌、斉の諸将から重用されることになります。

 

ライバル龐涓との戦いが近づいてくる

 

 

 

魏の将軍として着実に力をつけてきた龐涓(ほうけん)は、

魏の恵王(けいおう)に命じられて、韓(かん)へ侵攻を開始します。

韓は魏軍が桂陵の戦いで魏軍が大敗北した事を知っていた為、

斉と同盟を結んで魏軍の迎撃を行います。

しかし魏軍の攻撃は非常に激しく、韓軍は幾度も敗退し危機的な状況に陥ります。

そして韓王は斉に援軍を出してもらえるように要請します。

 

韓を救援に向かう

 

 

斉王は韓から「魏軍に攻撃され続けて、危険な状態に陥っている。助けてくれませんか」と

助けを求めてきます。

斉王は韓から来た使者に「分かった。すぐに救援軍を送ろう」と約束。

そして斉王は韓の援軍に田忌(でんき)と孫臏(そんひん)に出陣させる事にします

 

囲魏救趙の計が失敗

 

 

田忌と孫臏は斉軍を率いて出陣します。

田忌は孫臏に「韓を攻撃している魏軍を退けるには、囲魏救趙の計を用いるつもりだ」と

述べます。

しかし孫臏は「あの策が二度も通じる相手ではないように思われます。

作戦が失敗した場合の事は私が考えておきますので、存分に将軍は戦ってください。」と

田忌に伝えます。

田忌は自らが考えた作戦である囲魏救趙の計を実行するため、

韓へ救援に赴かず魏の首都である大梁へ攻撃を仕掛けます。

だが龐涓は孫臏の計略を読んでいた為、大梁に精鋭を残しておりました。

そのため大梁は斉軍の攻撃を仕掛けてきてもビクともせず、

反対に斉軍を迎撃して見事に打ち払い、包囲を解いた斉軍に猛攻を仕掛けます。

 

かまどを徐々に減らしてく

 

 

孫臏は田忌に「このまま大梁を包囲し続けていた場合、

大梁へ龐涓が戻ってきて非常に不利な状態になる事は間違えありません。

そのためここは斉へ向かって退却するのが一番いいでしょう。」と田忌に進言します。

田忌も大梁に籠っている兵士達が精鋭の兵士である事に驚き、

このまま大梁を攻撃していても勝ち目はないと感じていたため、

孫臏の進言を採用し退却を決意します。

斉軍は斉へ退却を開始し、そして一日目の宿営地に到着すると

田忌に「兵士に食事をとらせる時に、かまどを10万人分作るように命じてください」と

アドバイスを行います。

田忌は孫臏の言っている事が良く分かりませんでしたが、

彼に絶対の信頼を置いていたため彼の進言を疑わずにそのまま受け入れ、

兵士達に10万のかまどを作ってから食事を取るように指示を出します。

兵士達は食事を取る前に10万人分のかまどを作り、食事を取ります。

翌日の宿営地では5万人分のかまどを作るように田忌に指示を出し、

翌々日の宿営地では2万人分のかまどを作るように指示を出します。

孫臏はこうして少しずつ、かまどを減らしていく事で斉軍が退却していくたびに、

少しずつ兵を減らしている様に偽装させることで、

追撃してくる龐涓の油断を誘う計略でした。

 

孫臏の計略に引っかかる

 

 

龐涓は大梁に到着するとそのまま斉軍を追撃するべく、出陣していきます。

彼は斉軍の追撃を行い斉軍の宿営地にあるかまどが少なくなっている事に気付くと

側近に「斉軍は退却するたびに兵士が逃亡しているらしい。

斉軍に攻撃をかければ勝利は間違えないであろう」と断言します。

そして彼は斉軍に痛撃を与える為、昼夜兼行で斉軍に向かって進軍していきます。

 

伏兵を伏せさせ、魏軍を待ち受ける

 

 

孫臏は斉軍を率いて馬陵の地に到着すると田忌に

「魏軍に出した諜報者から先ほど報告が届き、龐涓が魏軍を率いているそうです。

彼は宿営地のかまどが少なくなっている事に気付き、

兵士が逃亡しているであろうと考えていると思います。

そこで彼はわが軍に痛撃を与える為、急いでわが軍の後を追ってきている事でしょう。

たぶん日が暮れるころにはこの馬陵へ到着する事でしょう。

そこでわが軍はあそこにある樹木周辺に弓矢を持った兵士を伏せさせておけば、

敵将である龐涓を討ち果たす事ができるでしょう」と予言じみた事を進言します。

田忌は孫臏の進言を受け入れて、樹木の周りに弓矢を持った兵士を伏せさせます。

孫臏は伏兵を指揮する将校に「火が見えたら一斉に弓を放て」と厳命。

そして孫臏は樹木に「魏将・龐涓ここに死す」と樹木に書きます。

 

復讐を果たす

 

 

龐涓は辺りが暗くなった馬陵に到着します。

馬陵に着いた彼は大きな木を見つけ、その樹木に何かが書かれているのを発見しますが、

辺りが暗くて何が書かれているのか全く分かりませんでした。

そのため、兵士達に松明を持ってこさせて樹木を照らさせると、一斉に弓矢が飛んできます。

龐涓の体には1万人が放った矢が突き刺さり、彼は即死してしまいます。

魏軍は龐涓が亡くなった事で、総崩れを起こし斉軍は魏軍の追撃を行い、

大勝利を収めます。

孫臏は馬陵の戦いで大勝利を収めたことで、彼の名は中華全土に轟くことになります。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

馬陵の戦いで大勝利を収めた孫臏は斉へ戻っている事は確実なのですが、

その後彼の足取りは歴史のから消えてしまいます。

そのためどうなったのか全く分からなくなってしまいます。

しかし一つ言えることは「兵法書」を彼が執筆して残し、

この兵法書は後世「孫臏兵法書」と言われる書物を残しております。

「今回の春秋戦国時代のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじさんでお会いしましょう。

それじゃまたにゃ~」

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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