三国志の時代の人は、古典から教養を得ているので、よく古代の話を、
例え話として出してきます。
街亭で敗北しさらに逃亡を企てて、処刑された馬謖(ばしょく)についても、
その処断について、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の部下である
蒋琬(しょうえん)が、子玉に掛けて惜しんでいますが、そもそも、
子玉(しぎょく)とはいつの時代の人なのでしょうか?
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この記事の目次
紀元前7世紀の楚の猛将 成得臣
子玉とは、字でフルネームは、成得臣(せいとくしん)子玉といい、
三国志を遡る事800年、紀元前7世紀の楚の成王に仕えた猛将で
令尹(れいいん)まで出世した人物です。
令尹とは、秦における丞相を意味し家臣たるものが登れる最上位です。
成得臣は武勇に秀でていますが、楚人らしく感情が激しく粗暴で、
ちょっとした事でキレる困った所がありました。
晋の文公が楚に亡命してくる
紀元前640年、放浪の貴公子である晋の重耳(ちょうじ)が楚に亡命してきました。
国の後ろ盾もなく、各地でバカにされてきた重耳ですが、
困難を乗り越えて自身も成長し部下との絆も固くなっていました。
楚の成王は、一目みて重耳がただものではないと見抜き、
対等関係の諸侯として遇して歓待しました。
重耳が成王に
「乱れた晋を救いたいので、私が晋に帰ったら
バックアップしてくれますか?」
と尋ねると、成王は快諾します。
そして冗談半分に成王は、、
「その代わりにあなたは何をしてくれる?」と重耳に聞きました。
すると重耳は、
「戦場で楚軍とまみえたら、三舎退きます」と答えます。
一舎は、一日に軍隊が行動できる距離で重耳は楚軍に遭遇したら
3日分軍隊を下げて恩義に報いると言ったのです。
手加減すると言われた子玉は文公を斬ろうとする
しかし、三舎引くには、手加減するという意味もありました。
その話を聞いていた誇り高い子玉は、腹を立てます。
「王よ、重耳は楚を侮辱しました、すぐに斬るべきです!」
ですが、子玉の気性を知っている成王は、それを宥めて、
重耳をおとがめなしにしました。
子玉、陳を破り、宋の襄公を辱めて令尹に昇る
紀元前637年、今まで楚に従っていた小国の陳が宋に通じて、
寝返る事件が起きます。
子玉は、即座に兵を起こして、陳を撃破しました。
さらに、当時、覇者に一番近い存在だった宋の襄公(じょうこう)が会盟を催して
中原の覇者になろうとすると、子玉は儀式の途中で襄公を拉致し、
宋国内を蹂躙して暴れまわり、襄公の面目を潰します。
これにより襄公は、遂に覇者になれませんでした。
一方の子玉は一連の手柄で、一族の子文(しぶん)に替わり、
令尹に昇ります。
得意絶頂の子文に蔿賈が苦言を出す
子文は彼の出世を祝い、成王の前で演習を行う時にも、
子玉に花を持たせようと訓練を朝で終わらせ、兵士を一人も処罰しませんでした。
一方の子玉は、一日中演習を行い、兵士七名を鞭打ち、三名を殺しました。
楚の臣は、子玉の有能さを褒めたたえ、子文を慶賀します。
ところが、重臣の蔿賈(いか)だけは、何の祝いもしませんでした。
子文が不思議に思うと蔿賈は言いました。
「何を浮かれておいでですか?子玉を令尹に推したのはあなたですぞ。
もし、子玉がしくじれば、あなたも責任を問われますよ、
そもそも、子玉は表面は勇壮ですが、我が強くて礼儀を知らず
民を治める事など出来ません、もし、戦車三百輌以上を与えて
他国を攻めたら生きて戻ってこれますまい」
この話は、人づてに子玉の耳にも入ります、子玉は立腹し、
必ず、手柄を立てて蔿賈を見返してやると決意します。
紀元前632年 成王、子玉と共に中原を攻めるが・・
紀元前632年、楚の成王は、令尹の子玉を伴い、長江を越えて、
中原の諸国を攻めますが、その頃、晋に帰り文公に即位した重耳が、
援軍を出してきたので、兵を引こうとします。
すると子玉が、それを諌めました。
「ここは何としても文公と雌雄を決すべきです」
ところが、状況の不利と文公の強かさを知っている成王は
乗り気ではありません、子玉は激しく感情を昂ぶらせ、
「私は何も手柄が欲しいのではなく、
あの蔿賈めにかつて侮られた恥を雪ぎたいのです」と言います。
成王、子玉の私利私欲に呆れ、彼を放置して去る
それを聞いた成王は呆れます、国の命運を左右する戦に、
かつて侮辱された恥を雪ぎたいという私情を交える
子玉のバカさ加減にです。
「ならば、軍は預けるから勝手にするがいい」
成王は、子玉に兵を預けて自分は楚に帰ってしまいました。
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