劉備(りゅうび)が益州にて漢中王から皇帝に即位したのは西暦221年のことです。
前年の西暦220年1月に最強にして最大のライバルであった曹操(そうそう)が死去しています。
その跡を継いだ曹丕(そうひ)が皇帝に即位したのが同年の10月です。
ここでついに漢は滅びます。
劉備は年号を章武(武は光武帝の武を意味し、
王莽のような国の簒奪者・曹丕を討って王朝を復興するという意思を示しました)にあらためています。
すなわち「蜀」という名称は他称であって、本来の国名は漢です。
蜀成立の背景
蜀の建国後、どうすれば魏を滅ぼせたのかを考える前に、
蜀建国時の背景を振り返ってみましょう。
西暦219年に劉備は義弟である関羽(かんう)を失っています。
それは同時に重要拠点である荊州を失ったことを意味しています。
また、重臣である孟達(もうたつ)が兵を引きつれて魏の曹丕に降っています。
この時、劉備はかなり危機的状況に追い込まれていたのです。
しかも4月に皇帝に即位した劉備は、同年の7月に関羽の敵討ちと称して呉に向けて軍を起こしています。
話が前後しますが6月には劉備のもうひとりの義弟である張飛が暗殺されています。
蜀という国自体がとても不利な状況であったことは間違いありません。
劉備の我慢が必要だった
劣勢の蜀が魏を滅ぼすには相当な努力が必要です。
まず呉の討伐に向った劉備を止めなければなりません。
西暦222年6月に劉備は呉の陸遜に大敗し、白帝城に逃げ込みます。
このとき劉備は八万の兵を失いました。
諸葛亮孔明をもってしても劉備の呉との決戦の決意を変えられなかったわけですが、
蜀と呉が手を結ばない限り魏に勝つことは難しく、
この戦いはいたずらに魏の曹丕を喜ばせるだけの結果になってしまいました。
劉備がここで自重し、本来の建国の志をまっとうしようと動いていたら
歴史は変わっていたかもしれません。
蜀はこの夷陵の戦いのダメージを回復するのに5年もの月日を要することになるのです。
孟達がカギを握っていた
劉備を裏切り、魏に降った孟達は曹丕に気に入られて、重要な拠点である新城郡の太守に任じられます。
西暦226年に曹丕が死去すると孟達は不安にかられるようになります。
魏には孟達を信用していない司馬懿らの存在があったからです。
プレシャーを感じた孟達はさらに自分を高く売り込もうと今度は魏を離反し、
蜀に内応しようと試みます。
孟達の新城郡は魏への突破口になり、かつ効果的な一撃を与えることになります。
諸葛亮孔明は孟達の内応を許しました。
諸葛亮孔明の準備
西暦223年に劉備が死去した蜀は、後継者の劉禅のもと呉と再度同盟を結びます。
そして西暦225年には南征を成功させ、蜀の勢力は復興していました。
魏に攻め込む準備が整ったのです。
魏の曹丕が死去したことも混乱に乗じて攻め込む格好の好機だったことでしょう。
西暦237年、諸葛亮孔明は出師の表を奉り、漢中に出兵することになります。
新城郡の孟達が内応を露わにしたのもこの年の12月です。
ここから第6次北伐まで続く蜀と魏の長い戦いが始まります。
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迅速な司馬懿の対応が魏の危機を救う
孟達の寝返りが効果を発揮していたら諸葛亮孔明の北伐は成功していたのではないでしょうか。
しかし、ここで魏の司馬懿が一月かかる道のりをわずか八日で行軍し、
油断していた孟達の軍を討つのです。
孟達が裏切ることを見抜いていた司馬懿の用意周到さが諸葛亮孔明の予想を上回ったのです。
これにより蜀は漢中から漢水を東に下って荊州から攻め込む道を失うことになります。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
「泣いて馬謖を斬る」ことになる街亭の戦いの敗北や、
魏延の子午谷道からの長安奇襲作戦を取り上げなかったことなど、
北伐を成功させたかもしれない分かれ道は様々あります。
しかし、一番のチャンスであった孟達の内応を成功させられなかったことが北伐を長引かせ、
引き分けに終わらせてしまうことになった最大の要因ではないでしょうか。
結論としては、劉備が呉を攻めず、さらに孟達の内応を慎重に成功させていれば、
蜀は魏を滅ぼしていたかもしれません。
さらに司馬懿を事前に暗殺できていれば間違いなかったのではないでしょうか。
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