呉の初代丞相は正史三国志に列伝が記載されなかった可哀そうな人物である孫卲(そんしょう)。その跡を継いだのが今回ご紹介する顧雍(こよう)です。彼は呉の宿老と言われている張昭(ちょうしょう)を押しのけて、呉の丞相へ就任。張昭を押しのけて宰相へ上った二代目丞相である顧雍とは、いったいどのような人物であったのでしょうか。
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後漢の名士蔡邕から気に入られる
顧雍は揚州の四姓の一つである「顧氏」の出身で、名家出身の人物です。彼は頭の回転が物凄く早く難しい事もすぐに理解することができ、博識としても知られておりました。そんな中、後漢の名士である蔡邕(さいよう)が顧雍の住む町を訪ねてきた時に、弟子入りします。蔡邕は彼の頭の良さと回転の速さを大いに認め
「君は将来必ず歴史に名を遺す人物となるはずだ。そこで私の字である「邕」の字と同じ読みである「雍」の字を君に与えたいと思う。」と提案。顧雍は師匠である蔡邕の字を頂けることを非常に喜び、彼の字と同じ字である「雍」の字を用いることにします。
地方の役人として素晴らしい実績を上げる
顧雍はこうして師匠である蔡邕から認められた後、太守や州から推挙されて合肥(がっぴ)の県長に抜擢されます。彼は合肥で住民に恩恵を与えながら治めます。この時の功績が認められて、その後も曲阿(きょくあ)などの地方官を歴任し、顕著な功績を残して民衆から大いに敬われます。
若き江東の当主・孫権に仕える
顧雍は各地で実績を上げるとその名声は江東中に広まり、孫策の跡を継いだ孫権の耳にも入ってきます。孫権は会稽(かいけい)を自らの手で納めなくてならなくなります。しかし彼は多忙でとても会稽に自らが足を運んで治めることができない為、最近自らに仕えた顧雍を抜擢して会稽を治めさせます。顧雍が会稽に赴いて政治を行っていくことになりますが、この時会稽で大規模な反乱が勃発します。反乱が勃発した際顧雍がすぐに反乱軍を討伐した為、土地は荒れず民衆にも影響はほとんど出ませんでした。そのため会稽の民衆達は顧雍を慕い、彼の治政を積極的に援助していくことになります。こうして顧雍の政治は民衆の助けもあって、しっかりとした治政を行っていくことになります。
中央に出仕して、呉の政権を担う
顧雍は会稽において実績を上げると呉の政権運営を担当するため、中央へ出仕することになります。彼は孫権が呉王の位に上ると中書令(ちゅうしょれい=皇帝などが発する文章を管理する役職で、非常に権勢を持っていた役職)に任命され、侯の位を与えられ呉の政権において非常に重要な人物となります。また物凄く真面目な性格であったため、彼は家に帰っても仕事の話などを家族とすることがありませんでした。そのため彼が侯の位に就任したことを顧雍本人から聞かずに、孫家の家臣から聞くことになり大いに驚いていたそうです。
孫権から絶大な信頼を得る
顧雍は生まれ持った生真面目さで仕事に一生懸命励み、孫権から信頼される家臣となります。孫権はいかに顧雍を信頼していたかを表すエピソードが残っております。彼は侯の位に就任してから仕事が少し落ち着くと、自分の母親と家族を呉の首都である建業(けんぎょう)へ呼び寄せます。この時孫権は顧雍の母親が建業に来ることを家臣から聞くと、建業に居る家臣らを引き連れて自ら顧雍の母親を迎えております。孫権にこれほど大きく信頼された人物は、当時の呉において数人しかいないのではないのでしょうか。こうして孫権から絶大な信頼を得ていた顧雍は、呉の重臣として政権運営に必要不可欠な人材になっていきます。
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