この記事の目次
宴会に出席すると酒が不味くなる
孫権は無類の酒好きでお祝い事や大きな戦で勝利をおさめた時にはかならず宴会を行います。また彼は宴会をすると酒を勢い良く飲み、家臣に絡んで厄介な人物でした。しかし顧雍(こよう)が宴会に出席すると宴会に出ていた諸将はがつがつお酒を飲まずに静粛にしていました。その理由は彼が真面目で酒を飲まずに、諸将の発言などを注意深く聞いている為、楽しむことができませんでした。そのため孫権は側近に「顧雍が来ると酒を楽しんで飲むことが出来ない。」と愚痴をこぼしていたそうです。しかし彼は私情を仕事に持ち込まない事で、公平な目線で物事を判断することから諸将から嫌われず、彼から指示があるとみな良く聞いていたそうです。
呉の二代目丞相就任
呉の初代丞相であった孫邵(そんしょう)が、亡くなると二代目丞相を決める会議が行われます。この会議で二代目丞相には、孫策以来から仕えている張昭(ちょうしょう)を丞相に就任させた方がいいであろうとの声か、大半を占めます。しかし孫権は絶大な信頼を寄せていた顧雍を丞相の位に就けます。顧雍は二代目丞相の位を慎んで受け、呉の政権を担うトップとして活躍して行くことになります。
私情を挟まない人材任用
顧雍は二代目丞相に就任するとまず手始めに、呉の政権実務を担当する人事を決めていきます。彼は自分の好き嫌いで人材を任用せず、適材適所の人材配置を行っていきます。こうして新たな呉の政権を運営する実務担当者を決定します。彼は武官を任命するときにも私情を一切挟まず、任命する武官がどのような実績を持っているのかを調査した後に任命します。こうして私情を挟まない公平な人材選考を行っていきます。
孫権を常に立てる
顧雍は呉の政権を運営する際に、様々な企画を実施していきます。この時自らの名前を表に出さず、すべて君主である孫権の名前を出して政策を実施していきます。なぜ自らの名前を表に出さなかったのでしょうか。
孫権をたてた理由は
その理由としては政策に協力しない人物を出さないためです。彼は公平な人物として呉の諸将から知られておりましたが、全ての人達がそうであったかと言われるとそんなことはありません。やはり一部の人は彼を妬んでおりました。そんな一部の人達をも動かすために、自らの名前を表に出さず孫権の名前を出して政策を実施することで、妬んでいる人達が抵抗感なく仕事ができるようにします。また孫権を立てていくことで、彼から疑いの目で見られないようにするための役目も果たし、孫権の自尊心を満足させることにもなります。
孫権から怒られる
顧雍は真面目に丞相の責務を果たしていき、呉の国は大いに安定していくことになります。孫権も彼に信頼を置いて政務を任せていきますが、ある時ものすごく怒られてしまいます。その原因を作ったのが呂壱(りょいつ)です。彼は孫権に気に入られるため、あの手この手を使って取り入ります。孫権も可愛いげのある彼を次第に、取り立てていくことになります。こうして呂壱は孫権に取り入ることに成功すると、孫権の側近であることを利用して、自分に敵対または敵対しそうな人物の悪口やちょっとした罪を次々に孫権の耳にいれていきます。孫権も呂壱の言葉を真に受けて、たいした罪を犯したわけでもないのに左遷されたり、怒られたりしてしまいます。顧雍も呂壱の讒言のせいで、孫権に怒られてしまいます。しかし彼は孫権に怒られたことを気にすることもなく、職務を遂行していきます。
優しい顔して呂壱を詰める
呂壱はその後、法律を無視して積み上げてきた罪がバレてしまい牢獄へぶちこまれることになります。顧雍は彼が牢屋に入ったことを知ると、自ら取り調べを行います。この時顧雍は優しい顔で彼に接しますが、取り調べの内容は非常に厳しく逃げるための口実を一切挟ませませんでした。そして顧雍に追い詰められた呂壱は、罪状が明らかになると処断されます。
19年間一生懸命働いてきた二代目丞相
顧雍は呂壱が処断された後も呉の国を支えるため、色々な政策を実施。優れた数々の政策によって呉の国は安定していきます。こうして19年間丞相の位で、国務についてきた顧雍は病に倒れ、丞相の位のままなくなります。彼の後任は陸遜(りくそん)が跡を引き継ぐことになります。
三国志ライター黒田廉の独り言
顧雍は公平無私な人物で、丞相に最も適任な人物でした。正史三國志を書いた陳寿(ちんじゅ)は彼をこのように評しております。「智謀をもって国家運営を行った人物である」THE・丞相に相応しい人物であったのではないのでしょうか。
関連記事:三国志時代に降伏や降参するときはどうやってサインを出していたの?
関連記事:【素朴な疑問】三国志時代はどうやって兵士を集めていたの?