魏の六大将軍の一人として知られる于禁(うきん)は、その最期の最期に
樊(はん)城を攻めていた関羽(かんう)に降伏した事で臆病者のレッテルを
貼られました。
しかし、戦乱の時代、力及ばず降伏するのは決して恥でも卑怯でも無かったのです。
では、どうして于禁は臆病者呼ばわりをされたのでしょうか?
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この記事の目次
三国志の時代、降伏する事は恥では無かった
最初に言っておきますと、三国志の時代、刀折れ矢尽きて敵に降伏するのは
恥でも不道徳でもありませんでした。
もし、それが恥なら張遼(ちょうりょう)も張郃(ちょうこう)も朱霊(しゅれい)も
戦に敗れて主を替えたのですから、卑怯者であるという評価になるでしょう。
三国志の時代は群雄の離合集散が激しく、何人もの君主を渡り歩く武将も
珍しい存在では無かったのです。
于禁の悲劇 相方龐悳との対応の明暗
では、どうして于禁においては関羽への降伏が恥になってしまうのか?
その一番の原因は共に援軍として赴いた龐悳(ほうとく)との対照的な対応でしょう。
龐悳は最期の最期まで出来る限りの抵抗をし、関羽を前にしても跪きもせず、
さっさと殺せとわめくばかりであり、それにより斬首されます。
一方の于禁は、あまり抵抗せず、すぐに降伏を受け入れています。
戦いの背景を考えずに見ると、于禁はあっさり降伏したように見え、
龐悳は殊勝にも最期まで奮戦したように見えます。
この対照的な対応は大きく、ことさら于禁が臆病者に見える原因に
なってしまっているのです。
疑問、関羽への抵抗に意味はあったのか?
ここからは、于禁の側に立って考えてみます。
于禁と龐悳の第七軍が、曹丕が立て籠もる樊城の救援に向かったのは
西暦219年の秋であったようです。
樊城というのは、漢水という川の近くにありましたが、その時に
十余日にわたり雨が降り続き漢水は氾濫し水は溢れて地上十数メートルが
水没するという事態になります。
七軍は船を持っておらず、多くの将兵が水に飲まれ、于禁や龐悳は、
高台を探して移動するも大軍が避難できる適当な場所はありませんでした。
この時、龐悳は鎧を着て矢をつがえ近寄ろうとする関羽の船団に抵抗しています。
彼の矢は、一本残らず命中したそうで奮戦がPRされてはいますが、
逆に言えば矢を放つ程度でしか抵抗出来ない状態だったのです。
事実、奮戦する龐悳を尻目に将軍、董衡(とうこう)と部曲将董超(とうちょう)は
関羽に降伏しようとして失敗し、龐悳に捕えられ斬首されています。
さらに水かさがあがると、矢が尽きた龐悳は接近戦に転じますが、
高地までが水没するに至ると、部下もほとんど降伏していまいます。
切羽詰まった龐悳は調達した小船に乗り樊城まで逃れようとしますが、
途中で船が転覆し捕縛されました。
冷静に考えて関羽への抵抗は無意味だった・・
これらの臨場感のある記述は三国志魏志、龐悳伝にのみあり
于禁伝では遥かに簡単な記述で済まされています。
しかし、両者は同じ場所で戦っているわけですから、状態は同じでしょう。
于禁は長年の戦争経験から、あがいても被害が増えるだけと判断して
関羽に降伏したと捉えるのが自然だと思います。
龐悳にしても部下の将軍を斬ってまで督戦しても結局は大量の投降者が
出るのを防げないのですから、遅かれ早かれ降伏するしかないのです。
龐悳の奮戦は自己満足に過ぎず、無駄に部下を殺したとも言えます。
于禁の判断が臆病で合理性を欠くとは思われません。
関羽は降伏する于禁も龐悳も蔑んではいない
三国志演義では、関羽は死を選んだ龐悳を褒め、降伏した于禁を「狗め」と
蔑んだようですが、正史には、そのような記載はありません。
龐悳に関しても、関羽はすぐに殺す事はなく、
「お前の従兄弟の龐柔(ほうじゅう)は蜀にいるから共に仕えんか?」と打診しています。
しかし、龐悳は劉備(りゅうび)を凡君と罵り飽くまで拒否したので斬首しているのです。
関羽が于禁に対して、何か言葉をかけたという記録はありませんが、
少なくとも「狗め!」と罵るような事はしていないでしょう。
元々関羽は、曹操に一時仕えていましたし、※徐晃や張遼とは陣営を越えて
友と言えるような存在でした。
(蜀志 関羽伝及び、関羽伝に引く、蜀志の記述)
もちろん、折角捕まえた于禁を簡単に解放するとは思えませんが、
少なくとも、敗軍の将として于禁を尊重する程度の待遇は約束したものと
考えていますがどうでしょうか?
龐悳は間違っても関羽に降伏できなかった
龐悳は領兵を率いて曹仁(そうじん)と共に宛を攻略して関羽と呼応して叛いた
侯音(こうおん)、衛開(えいかい)を殺し、曹仁と分れ、南の方の樊付近に
駐屯して関羽と戦います。
しかし、樊城の諸将は、龐悳の兄が蜀軍に仕えていた事から龐悳は関羽に
降伏して便宜を図ってもらうのではないか?と疑っていたようです。
そこで龐悳は樊に向かう前に
「私は国に恩を受けたものだ、死を以て諸君に義という物を見せてやろう
その証拠として、私は関羽を撃破して殺す事を誓う、もし今年中に
私が関羽を殺せないなら関羽が私を殺しているだろう」と宣言しています。
このように何があっても、龐悳は関羽に降伏できませんでした。
最初からそのような約束がない于禁とは立場が違っていたのです。
曹操の言葉は于禁を見捨てたものか?
また、于禁が関羽に捕えられた時、曹操が三十年来の古参の于禁の覚悟が
新参の龐悳に及ばない事を嘆く記述がありますが、
これを以て曹操が于禁を見捨てたと言うのは早計ではないかと思います。
曹操の死去は、于禁が捕えられてから半年くらいは後です。
もし、見捨てたなら、于禁が呉に捕らわれている事は知っているわけですから
二度と戻さないように呉に釘を刺すくらいはするでしょう。
確かに失望したのは事実でしょうが、次に手柄を立てれば、
名誉挽回のチャンスを与える位の余裕はあったように思えます。
その証拠として、于禁の死後、于禁が授けられた益寿亭(えきじゅてい)侯は
息子の于圭(うけい)に継がれ、家名が途絶えなかった事が挙げられます。
ただ、曹操の死により、于禁に名誉挽回の機会は訪れなかったというだけです。
三国志ライターkawausoの独り言
于禁は輝かしい前半生と転落の晩年がくっきりし過ぎて、終わりが残念な人
という印象ですが、それは斬罪に処されるような致命傷ではありません。
で、あればこそ、于禁の封侯は子孫に伝えられたのです。
惜しむらくは、曹操が名誉を回復するまで生きていなかった事、、
そして曹丕の底意地が悪い対応により于禁が憤死した事ですね。
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