ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・易姓革命」のコーナーです。
一度成立した王朝を滅ぼすとためにはかなりのパワーを必要とします。
日本は万世一系の天皇が存在する国家ですので、イメージが難しい話ですが、
江戸幕府の終焉などがこれに当てはまるのではないでしょうか。
武力による倒幕か、平和的に政治主導権を譲渡させるのか、幕末は大いに揺れました。
中華ではトップの姓が替わる(易わる)ということで、このような革命を易姓革命と呼びます。
そして軍事力によって前王朝を倒すことを放伐と呼ぶのです。多くの血が流されることになります。
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江戸幕府の無血開城
江戸幕府は別に王朝ではありませんが、日本の政治を牛耳っていたリーダーです。
その倒幕に動いたのは薩摩藩、長州藩、土佐藩、佐賀藩などの志士たちです。
鳥羽伏見の戦いなど、武力衝突を繰り返しています。
しかし、本丸である江戸城は無血開城をしています。
この決断によって互いの損害は最小限に抑えられています。
被害が最小限だったことで、
新政府は日本をひとつにまとめるべく素早く次の動きをとることができるようになりました。
そして明治維新を迎えることになるのです。
できれば互いに平和的に政権交代をしたいのです。
もちろん最後まで徹底的に抵抗するグループも存在しますが、
民衆の大多数が新しい政権に期待を持って迎えます。
もう一つの王朝交代劇
三国志の時代でも同じような感覚があります。
王朝交代を平和的に行おうとする動きです。こちらを「禅譲」と呼びます。
政治的な手順を踏むことが大切です。
曹操・曹丕が中華の歴史に禅譲の基本モデルを誕生させました。
禅譲の手順としては、まず宮中で名乗ることを許され、帯剣も認められます。
そして九錫の使用を許可してもらうのです。
九錫とは皇帝の権威を示す9つの道具のことです。
車馬、朱戸、虎賁(近衛兵)、鉄鉞、楽則などで、要するに皇帝に準じた待遇を許されたわけです。
さらに皇帝に娘を嫁がせ、縁戚関係を結びます。そして自らは公や王に就くのです。
これで禅譲の準備は完成です。
約800年間もの期間、この禅譲の形式が受け継がれていきます。
このモデルを「魏武輔漢の故事」と呼ぶのです。
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曹操の思惑と反対勢力
後漢の国教は「儒教」です。
日本でも江戸時代の5代将軍徳川綱吉は儒学の思想を政治の軸としています。
悪政と呼ばれる「生類憐みの令」もそこから誕生しました。
こちらの政策の効果についてはいずれお話をしたいですね。
日本人の心情を大きく変革しています。
江戸時代約260年間に起きた犯罪は
現在の東京都で1年間に発生する犯罪よりも少なくなったといわれています。
話を戻しますが、後漢を滅ぼすということは、儒教との対立です。
曹操の前に立ちはだかったのが儒家らの名士なのです。
そこを乗り越えない限り禅譲は成立しません。
そして、曹操の九錫の拝受、魏公の即位の真っ向から反対したのが、
曹操の重臣中の重臣である荀彧(じゅんいく)でした。
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曹操の魏公即位の時期
荀彧がなぜ真っ向から反対し、曹操に自害に追い込まれたのかはっきりとはわかっていません。
ただいえることは、曹操もまた荀彧の発言力と影響力を認めていたということです。
三国志演義では魏公になった後、荀彧を自害に追い込みますが、
正史では荀彧が亡くなるまで曹操は魏公にはなっていません。
荀彧が魏公即位の障害になっていたということでしょう。
荀彧の死が、後漢滅亡と禅譲を進めるシナリオの大切な要素になったのは間違いないようです。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
自由奔放で既存の法などに縛られるイメージなどまったくない曹操が、
なぜこのような手堅い手順で禅譲を進めたのか疑問が残ります。
それだけこの時代の儒家ら名士の力が巨大だったのかもしれません。
荀彧の死はそれらの発言力を大きく削ぐことになりました。
荀彧はそれがわかっていて、自らの死によって曹操による禅譲を進めたという考え方もできます。
皆さんはどうお考えですか。
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