【三国志都市伝説】袁術は曹丕より先に禅譲を考えていた?

2017年3月25日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

三国志のはちみつボーイ袁術(えんじゅつ)、彼は三国志演義のイメージに反して

当初は熱心に漢王朝を支えていましたが、曹陽(そうよう)の戦いで献帝の軍勢が

李傕(りかく)郭汜(かくし)、張済(ちょうさい)の連合軍に撃破され

一度目の献帝死亡説が流れた頃に、漢の天下を見限り独自政権を目指すようになります。

そんな彼は完璧な皇帝即位を目指し、禅譲を目論んでいた可能性があります。

 

関連記事:呂布VS袁術、東西嘘合戦、勝利するのはどっちだ!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



袁術は、195年の11月に漢王朝を見限った・・

 

反董卓連合軍の頃には、劉虞(りゅうぐ)を皇帝に

擁立しようとする袁紹(えんしょう)と対立してまで、

献帝を押していた袁術ですが、董卓(とうたく)の死後、

李傕・郭汜が長安を乗っ取り、他の諸侯も積極的に献帝を救おうとはしない事から、

すでに天命は尽きたと思うようになっていったようです。

 

その決定的な事件が西暦195年11月の曹陽の戦いでの献帝軍の敗戦です。

李傕・郭汜、張済の連合軍に董承等は立ち打ち出来ずに多くの献帝の部下が死亡、

献帝さえ、死んだという噂が流れました。

 

それを受けた袁術は、「今度はワシの出番じゃなウヒョ」と言いだして、

皇帝即位を持ちだし、主簿の閻象(えんしょう)にあっさり拒否されています。

一度は引きさがった袁術ですが、やはり我慢できず、197年正月には、

周囲の反対を押し切り皇帝に即位しているのです。

 



袁術伝には、皇帝即位の経緯がバッサリ切られている

 

しかし、そうまでして即位したのに、袁術の皇帝即位の記述は殆どありません。

 

用河内 張烱之符命 遂僭號

 

河内の張烱(ちょうけい)という人物が袁術が皇帝になるという瑞兆があったと

符を持ってきて言ったので袁術はとうとう即位したとあるだけです。

袁術は後漢が滅びていないのに、皇帝を名乗るのですから、それこそ回りくどい

クドクドした様々な儀式を経て、正当性を前面に押し出したと思います。

 

それが、たったの12文字で終わっている、これでは三国志演義のような

「玉璽があるから皇帝じゃい」という残念な人物と違いがありません。

本当は禅譲を成し遂げた曹丕に負けない分量の皇帝即位までの儀式の詳細を

記した文章が残っていたのではないでしょうか?

 

一度は見限った献帝を救った理由とは?

 

そんな袁術ですが、曹操軍の曹洪(そうこう)が献帝を迎えに軍勢を差し向けてきた時に、

西暦196年、董承の要請で、部下を派遣して防いだ事があります。

一度は、見限った筈なのに、どうして献帝を救ったのでしょう?

あれだけ現金で計算高い袁術が、なんの見返りもなく、そんな事をするとは

とても思えないのです。

 

これは全くの想像ですが、袁術は董承や献帝、親戚の楊彪(ようひょう)に対して、

 

「天子には、どうか寿春に来て、疲れた体を休めてもらいたい」

 

等と言ったのではないか?などと思うのです。

 

やってきた献帝を拘束し、無理やり禅譲を行わせるつもりの袁術

 

もちろん、袁術が本気で献帝の保養をさせるわけはありません。

のこのこと献帝一行がやってきたら、これをお得意の拘束で閉じ込め

禅譲するまで開放しないという計略です。

 

袁術は、劉和(りゅうわ)、馬日磾(ばじつてい)秦宜禄(しんぎろく)等

他国からの使者を引きとめて返さないパターンで漁夫の利を得ていますから、

ただの皇帝即位ではなく献帝に禅譲させ、明確に天下が劉氏から袁氏に移った事を

天下にPRをする、トンデモナイ構想を考えていたのではないでしょうか?

 

袁術のお得意戦術を知っている董承や楊彪はそれを拒否した

 

しかし、袁術の手口を知っている董承や楊彪は、それを丁重に断ります。

当てが外れた袁術は兵を引き上げ、結局、禅譲抜きで独自王朝の建設に踏み切った。

事実は、そういう事なのではないかと思います。

 

そして、実は、袁術は禅譲の想定パターンを華歆等に研究させ文書で持っていた

こんな事が想像されてしまうのです。

 

曹丕の禅譲の元ネタは袁術の焼き直し・・

 

袁術は、100年以上も後漢王朝に仕えた袁家の人間として、

宮廷の儀式のノウハウを豊富に持っていたと考えられます。

その長年の経験から王莽(おうもう)の纂奪を越えた、もう少し温和な方法、

禅譲のプランを編み出したのではないかと推測するのです。

 

華歆(かきん)は当初、袁術に引きとめられて仕え後に呉を仲介して魏に仕えますが、

荀彧(じゅんいく)を継いで尚書令になり、曹丕(そうひ)が即位すると

司徒(しと)に上っています。

 

もしかすると、曹丕の受けた禅譲は、華歆プロデュースの袁術の皇帝即位文の完コピで

それがバレるのが格好悪いので、陳寿が、袁術伝から皇帝即位の部分の文章を

全カットしているのではないでしょうか?

 

関連記事:魏王朝から禅譲後に晋の領内で進撃の○○が出現した!?

関連記事:曹操の短歌行が後世にまで禅譲のお手本として残ってたってホント?

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

以上、妄想に近い、袁術の禅譲プランについて書きました。

正史三国志では、皇帝即位の文章は、曹丕のそれが尋常でない程に長く

劉備(りゅうび)の即位がやや詳しく、孫権は袁術並みに素っ気ないです。

 

ここで気になるのは、孫権もまた、長く袁術を見てきた人物であるという事です。

彼も、袁術の皇帝即位マニュアルを完コピして行い、それを気にした陳寿が、

孫権の即位文を全削除したのかも知れません。

 

袁術禅譲計画、、信じるか信じないかは、あなた次第です。

 

関連記事:献帝死亡説を利用した?劉備が漢中王に即位したのは孔明と法正の入れ知恵の可能性が浮上!

関連記事:孟達に全てがかかっていた!諸葛孔明の北伐は成功したかも?

 

—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-袁術
-,