うーん、季節は梅雨ですねぇkawausoがいる沖縄では
2017年6月19日現在も絶賛大雨の真っ最中です。
雨と言えば、雨具や雨靴、傘なのですが、三国志の時代には、
現代のような傘は存在していたのでしょうか?
今回のすこやか三国志は、聞いた覚えがない三国志の時代の傘について
色々、探っていますよ。
この記事の目次
始皇帝の馬車についているアレは傘じゃないの?
始皇帝の兵馬俑などを見ていると、馬車の上に傘のようなものが
開いているのが確認できますが、あれは傘ではないのでしょうか?
実はアレ、傘ではなく車蓋(しゃがい)と呼ばれていました。
用途は雨をしのぐ事ではなく権力の象徴で馬車の上に開き威厳を示していました。
その証拠として貴人の馬車の車蓋は黒絹で防水性はゼロです。
車蓋は馬車から取り外す事が出来て、移動中も貴人に差し掛けていましたから、
やっぱり実用ではなく、威厳を示すアイテムですね。
おまけに車蓋は閉じる事も出来ません、ずっと開きっぱなのです。
光武帝が車蓋で恥をかいた記述
光武(こうぶ)帝が皇帝になり、馬車が封丘(ふうきゅう)という城に入ろうとした時、
城門が低くて、車蓋が天井につかえて通れず、恥をかかされた光武帝は
激怒して下役を鞭で打ったという記録が後漢書・虞延(ぐえん)伝にあります。
実は、この車蓋、高さが3メートルもあり、馬車の高さ
120センチと合せると4メートル20センチにもなります。
中型のトラックでも、高さ4メートルですから、
当時の馬車の全高は中型トラック以上という事になるのです。
それはさておき、高さ3メートルの車蓋は傘というより、
閉じないビーチパラソルの方が近い存在でしょう。
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三国志の時代には傘は無かったのか?
では、三国志の時代には、現代のような傘は無かったのでしょうか?
どうやら、当時は手に持つ傘よりも頭にかぶる笠がポピュラーだったようで
三国志 呉書 呂蒙(りょもう)伝には、官給の鎧を雨で濡らす事を嫌った
南陽出身の兵士が、民家の軒にあった笠を盗んで使用し、それを知った呂蒙が、
「窃盗は僅かな罪でも許されない」として斬罪に処した記録があります。
でも、考えてみると戦争に出ている兵士が片手の塞がる傘を差して
戦うなどという事はあり得ないような気がしますね。
他に傘の記録はないのでしょうか?
前漢時代の宦官 史游の書いた急就編に傘の記述が
前漢時代の元帝の配下に宦官の史游(しゆう)という役人がいて、
彼は、漢字練習用の教科書、急就(きゅうしゅう)編という本を書いています。
この急就編に注釈を書いた顔師古(がん・しこ:581~645)によると
「頭に乗せて雨を防ぐのを笠と言い、把(は:取っ手)がついていて、
手で持って雨を防ぐのをトウと言う」という一文があります。
このように、「竹」+「登」の漢字を当てたものが、
この時代の傘であるという事が出来ると思います。
但し、この時代の傘は閉じるという機能は持っていなかったようで、
そうだとすると保管は、かなり不便な感じですね。
三国志ライターkawausoの一言
傘というと、雨ばかりではなく、これに強風が絡むとキツイですね。
途中で折れてしまったら、ゴミになる上に、ずぶ濡れという悲惨な目に遭います。
でも、それは、傘の骨が八本と少ないからで、その倍の十六本骨の傘なら、
強風にも耐えて、傘が裏返るという大惨事も防ぐ事が出来ます。
もちろん骨が多い分、一般の傘よりも重いという難点はありますが、
値段も手ごろで、丈夫という評価は一定しているようです。
調べてみると、さらに上の二十四本骨傘もあるようなので、
少々重くても頑丈な傘をお探しの方にはおススメですね。
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