董卓(とうたく)には、董旻(とうびん)、董擢(とうかい)という兄弟がいますが
牛輔(ぎゅうほ)は、そんな董卓の娘を妻として、その眷族に加わった人物です。
董卓が権勢を欲しいままにした頃には、羽振りも良かったのでしょうが、
この牛輔、困った事に董卓の娘婿とは思えない程に気の弱い人物でした。
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戦歴はあまり芳しくない牛輔
牛輔は、出身地も名前も不詳となっています。
また、眷族というだけで、牛輔個人の戦歴は大した事はありません。
後漢書の董卓伝によると、西暦189年頃の事、黄巾の残党である郭太(かくたい)等が、
西河白波谷に再決起して、太原を荒らし回り、とうとうに河東を破ったので
人民は苦しみ、三輔(さんぽ:長安近辺)に流れ込んできました。
この賊は、本拠地の名を取り白波賊と名乗り十余万の大軍になります。
洛陽を掌握したばかりの董卓は恐れて、中郎将の牛輔を派遣して、
打ち破ろうとしますが、牛輔は芳しい成績を上げる事が出来ませんでした。
この事で、白波賊が弘農王に落した少帝と結託する事を恐れた董卓は、
少帝を毒殺したとあります。(正史三国志では反董卓連合軍を恐れてとされる)
白波賊が弱いとは言いませんが、董卓が期待する戦績を挙げられない牛輔は、
一族の董旻等と比較しても有能な将軍だったとは思えません。
董卓の眷族として、中郎将に任命され陜に駐屯する
そんな頼りない牛輔ですが、董卓の娘を妻にした縁で、董卓が洛陽を陥れて
献帝の後見人になると董卓の眷族として重要なポストにつけられ、
董卓の長安遷都後は、陜という土地に駐屯して反董卓軍に備える事になります。
この時に、李傕(りかく)、郭汜(かくし)、張済(ちょうさい)というような
涼州DQN軍団が配下になりました。
西暦192年1月、朱儁(しゅしゅん)が長安奪還を目指して攻め込んでくると、
牛輔は李傕、郭汜、張済に出動を命じ、これを中牟という土地で撃破しました。
ここまでは良かったのですが、李傕、郭汜、張済は、さらに陳留郡や
頴川郡の都市に襲い掛かり、多くの市民を虐殺、誘拐、掠奪しました。
しかし、臆病な牛輔にそんな命令、出せそうもなく、結局、暴走した、
DQN軍団三名を制止する能力が無かっただけではないかと思えます。
それでも、董卓がいる限りは、気弱な牛輔でも安心でした。
董卓の死後、臆病さに磨きがかかる
西暦192年の4月、董卓はボディーガード兼義理の息子呂布(りょふ)に殺されます。
その背後にいたのは司徒の王允(おういん)で、彼は呂布と董卓の間の隙間風を感じ取り
呂布を抱き込んで、仲間に引き入れたのでした。
董卓が死んだ事を聞いた牛輔はパニックを起こします。
元々、気が強い方ではないのに、後ろ盾の義父、董卓が死ねば尚更でした。
牛輔は、今に裏切り者が出るのではと疑い、兵を操る割符を堅く握りしめ
処刑台と刑罰を意味する鉞(まさかり)を自分の部屋に置き、
自分の手前に引きよせ「俺は強いのだ!」と虚勢を張っていたようです。
さらに猜疑心の余り、牛輔は占いに傾倒し、誰に会うのでも、まず占い、
悪い結果が出ると来客を殺しました。
これでは、軍が弱くなるのは無理からぬ事でした。
王允からの追討軍の李粛を撃破したが・・
やがて、王允は李粛(りしゅく)に軍を与えて陜の牛輔を攻撃させました。
牛輔の軍勢は、なんとか踏ん張り、李粛は撃破されて弘農に逃げ込みます。
後に、李粛は敗戦の責任を問われ呂布に処刑されました。
それから、間も無く、牛輔の軍で反乱が起きて、逃亡する兵が出ました。
この時に動揺した兵はごく一部だったのですが、疑心暗鬼の牛輔は、
すべての兵が離反したと勘違いし激しいショックを受けてしまいます。
(もうダメだ、、早く、この城から逃げなければ・・)
こうして牛輔は信頼のおける部下、5名余りと金銀財宝を持って城を脱出し
黄河を渡り、東の方に逃げようと企みます。
牛輔は部下の中で一番信頼している攴胡赤児(ほくこ・せきじ)という者に財宝をもたせ、
自分は金の延べ板を体に背負い、真珠の首飾りを首からかけて(ダサい姿・・)
必死になって、城壁から降りようとしたようです。
ところが、牛輔の財宝に目が眩んだ攴胡赤児は、必死に城壁を降りている
牛輔のロープから手を離しました。
「あっ!」と思う間もなく、牛輔は地面に転落、腰を強打して動けません。
攴胡赤児「気が変わった、俺達はあんたの財宝を横取りして、
王允方に寝返るとするわ」
こうして、命乞いをする牛輔の首をサクッと刎ねると、
攴胡赤児等5名は王允に投降してしまうのです。
どこが信頼の置ける5名なんでしょうか・・
こうして、ここ一番という重要な時に義父董卓の仇を討てないばかりか、
欲に目が眩んで、つまらない部下に首を討たれるという、
カッコ悪い最期を牛輔は迎えてしまうのでした。
[李傕郭汜祭]kawausoの独り言
牛輔の評価を一言で言うと、董卓の義理の息子だった人という事になります。
義理の息子で言えば、呂布もそうですが、呂布とは良くも悪くも雲泥の差です。
また、牛輔の配下には、天下一の鬼謀の持ち主賈詡(かく)もいたのですが、
牛輔が生きている間、うんともすんとも動こうとはしていないのです。
どうやら、「どんな助言をしても牛輔は何もできまい」と見限っていた可能性大です。
自ら運命を切り開く才覚に乏しい牛輔は、所詮、董卓が死んだ段階で、
すべてが終わっていた人だったのかも知れません。
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