三国志を知らない人でもその名を知っている諸葛孔明(しょかつこうめい)。
彼は正史三国志を編纂した陳寿(ちんじゅ)や
正史三国志に註訳をつけて編集した裴松之も彼を高く評価しております。
孔明を高く評価したのは彼らだけでありませんでした。
呂布に脅されても顔色一つ変えずに正論を述べて黙らせ、
呂布滅亡後は曹操に仕えて名声を天下に轟かせた人物・袁渙(えんかん)の息子である
袁準(えんじゅん)も孔明を褒め称えておりました。
この袁準が書いた袁子において孔明を褒め称えていますが、
どのように彼を褒め称えているのでしょうか。
関連記事:【みんなが知らない諸葛孔明】戦率99%!撤退戦では無敗だった!?
友達から尋ねられる
袁準はある日友達と色々なことについて語り合います。
例えば昔の曹操がどのような人物であったのか。
また孫権や劉備の人柄についても語り合っておりました。
そんな中、袁準の友達は蜀の宰相としてその名を天下に轟かせた孔明について
「彼はどのような人物であったのか」と尋ねます。
すると彼は「関羽・張飛は一万の兵力に匹敵するほど強力な人物であったが、
軍事に特化した人であったため、政治や政略についての感心を持っていなかった。
しかし孔明が劉備の軍師として仲間に加わると群臣達は、
皆彼の言うことを聞いて政略や政治を行っていたそうだ。
また彼は劉備に信頼されていたため幼い皇帝を託され、
権力を一身に集めることになるが礼節を失うことなく君主を代行して、
政治を取り締まったため誰も彼を疑うことをせず、
彼の言うことをしっかりと聞いて服従したそうだ。
そのため現在でも益州では孔明を慕う歌が流行っているそうだ」と述べます。
街亭の戦いについて質問される
袁準は友達とその後も孔明のことについて色々と議論を始めます。
友達は彼に「孔明が初めて北伐を行った際、南安(なんあん)・安定・天水の三郡は
孔明の北伐に呼応し他にも関わらず、
彼はゆっくりと進軍していたせいで魏軍にこの三郡を取られてしまった。
これはどうしてなんだい」と質問されます。
すると彼は「蜀軍には優れた将軍が少なく、
彼の最初の北伐戦だったので魏軍がどれほどの強さを持っているのかを知るため、
ためらいを感じてわざとゆっくり進軍したのである。」と答えます。
すると友達は再度袁準へ「孔明は勇敢な将軍だったのかな」と質問。
袁準は友人に「孔明は勇敢な将軍だったと思う。
その理由として孔明の軍勢は安定と冷静を常として行軍していたので、
軍勢を行動させるのに不自由なくスムーズに行動できたそうだ。
また堅固と慎重を持っていたので軍勢は進退を自在に行うことができた。
さらに孔明の軍規は誰でもわかるようにするため信賞必罰で、
兵士達は危険を顧みることなく行動していたために軍勢は非常に強かったと聞いている。
これらを総合した結果、孔明率いる軍勢は非常に勇猛であり、
孔明自身がこのようにしていたため、彼も勇猛な将軍であると考えている。」と述べます。
この他にも袁準と友人は日が暮れるまで孔明に対しての議論を行い続けていたようで、
孔明議論はとどまる事がなかったようです。
三国志ライター黒田レンの独り言
袁準は友人から孔明議論の最後にこのようなことを質問されます。
友人は「君の孔明に対する評価は理解したが、
孔明は優秀な人物であったのに何故成果が少なかったのだろう」と質問されます。
すると袁準は「孔明は基本を忠実に守る人物であり、
変化に対応することを苦手としていた人物である。
そのため自分が得意としない変化に富んだ状況下で無理をしなかったから、
成果を上げることができなかったのではないかと考える」と述べております。
この評価は正史三国志の著者である陳寿と一緒であり、
孔明は変化に富んでいる軍事においては苦手としていた
証左となるのではないのでしょうか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など
関連記事:孔明の南蛮征伐の目的は交易路(南シルクロード)狙いだった!?
関連記事:天才軍師・諸葛亮孔明抜きの劉備はどこまで健闘できるの?
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—