魏の武帝として知られ、三国志の中でトップクラスの才能を持った曹操(そうそう)。しかし青年期の曹操は花嫁を盗んだり、気に入らない叔父を騙したりととんでもない悪ガキでした。
そして曹操は成人になり就職することになりますが、自分の名前を売り出すため、就職先でもとんでもないことをやらかしているのです。
この記事の目次
洛陽北部尉に任命される
曹操は司馬懿(しばい)のパパ司馬防(しばぼう)の推挙を受けて、洛陽北部尉(らくようほくぶい)に任命されます。若い頃から曹操と司馬家には縁があり、後年司馬家が魏王朝を乗っ取ることを考えると因縁のような物を感じませんか。こうして曹操は就職することになりますが、曹操が就職した官職はどんな物なのでしょうか。
洛陽北部尉とは一体どんな官職!?
曹操が任命された洛陽北部尉とはどんな役職なのでしょう。洛陽北部尉は役職名ではなく、後漢王朝の首都・洛陽の北側の尉です。尉は軍事・刑事を司る役職。そして後漢王朝時代には洛陽に東西南北四つの尉が存在していました。
曹操はこの洛陽の北側の尉に任命されたという事なんです。ざっくりと洛陽北部尉の役職がわかったと思います。さて曹操は洛陽北部尉に任命されると早速仕事を開始。
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門を改修して立札を立てる
曹操は洛陽北部尉の現場に到着すると早速門を改修し、棍棒を作って立札を立てさせます。曹操は立札に「禁令を犯してこの門を通った奴はどんなに偉い奴でも撲殺するぜ」と書きます。こうして曹操は禁令を犯した者がどのようになるのかを書き記し、注意喚起を促すのでした。しかし曹操の注意喚起の文章を無視して、禁令を犯そうとするとんでもない奴が登場します。
権力者を撲殺
宦官の中でも権力者として知られる蹇碩(けんせき)。この蹇碩の叔父は曹操の事を知らないで夜間外出して、曹操が改修した門をくぐって帰ろうとします。
しかし曹操の部下に引っ捕えられ、曹操の命令で棍棒を打ち付けられ、殴り殺されてしまいます。この結果、曹操の禁令に逆らう者は一切いなくなり、しっかりとした秩序が洛陽北部に出来上がることになります。でも普通の人であれば曹操のような行動に出ることはまずできないでしょう。それは権力者に楯突いたら復讐される可能性があり、例え復讐されなくても仕事をクビになるかも知れないからです。どうして曹操はこのような暴挙とも言える行動に出たのでしょうか。
曹操が権力者を打ち殺した理由その1:自分の名前を売り出すため
曹操が権力者として知られる蹇碩の叔父を殺害した理由その1としては、自らの名前を売り出すためだと考えられるでしょう。一つこの考えを支える根拠があります。それは曹操が書いた述志令と言う文書に残っています。
曹操はこの述志令で洛陽北部尉時代の事を振り返って「私は当時名前が知られていないただの若造だった。だから私はそれなりの官職に就いてからみんなをあっと言わせて、曹操こんなにできるんだぞ!!ってアピールしたかったんだ」これらのような事が書かれております。曹操が権力者・蹇碩の叔父を撃ち殺した理由として、みんなをアッと言わせて自分(曹操)ができる奴だぜって所をアピールし、名前を売り出したと考えることが出来るのではないのでしょうか。
曹操が権力者を打ち殺した理由その2:法律を遵守するため
曹操が洛陽北部尉時代に権力者を打ち殺した理由その2として、法律を遵守させるためだったのではないのでしょうか。阿Q正伝の作者・魯迅(ろじん)は曹操の特徴として「法律」と「規律」を厳正に守る所に特色があると言っています。
曹操は後年三国一の国土を有したとき、しっかりと法律と規律を順守させ、家臣や戦の指揮をしてきました。これらを考えると曹操が洛陽北部尉時代に権力者でも法律に逆らえば、このように厳罰を持って接すると民衆や権力者にアピールしたと言えるのではないのでしょうか。レンは上記二つの理由から曹操が権力者・蹇碩の叔父さんを打ち殺した理由として考えるのですが、皆様は曹操がどうして蹇碩の叔父さんを撃ち殺したと思いますか。
■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■
三国志ライター黒田レンの独り言
レンは曹操が蹇碩の叔父さんを打ち殺したのは以上の事が理由だと考えます。あくまでも上記はレンの予想ですので、果たして合っているのかは曹操さま自身に問うてみないと始まりません。しかし一つ言えるのは曹操が若い頃から権力者に阿ることをしない人物だったと言えるでしょう。
参考 富山房インターナショナル 三国志素顔の英雄達 易中天著など
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