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公孫瓚の易京城はどんな城?

2018年7月25日


 

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公孫瓚

 

北方の雄、公孫瓚(こうそんさん)、一時は河北を支配した彼ですが鮑丘(ほうきゅう)の戦いで袁紹に敗れて以来、次第に勢力を縮小していき、最期には易京(えきけい)城に籠城(ろうじょう)して五年の後に敗れて自害しました。これはよく知られている話ですが、易京城とはどんな城だったのでしょうか?

 

易京城に兵糧を蓄え、堅城を作った公孫瓚

 

今回は、公孫瓚最期の地、易京城について解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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易京城とは、土壁と濠で造られた城

易京城に籠城する公孫瓚

 

公孫瓚が築いた易京城とはどんな城だったのでしょうか?

魏志の公孫瓚伝には、以下のような記述があります。

 

塹壕(ざんごう)を十重にして、塹の裏には(きょう)(土の丘)を築き、その高さは皆な

五・六丈(15~18メートル)、その上にさらに(ろう)(やぐら))を建てた。

塹壕の中心の京は特に高さ十丈(30メートル)で、自らの居所とし

食糧三百万石を積んだ。

 

公孫瓚と揉める袁紹

 

これを見ると、易京城は京(土の丘)と塹壕が十重に巻かれた土の城です。土の城というと貧弱なイメージですが、当時の城は大半土城でした。黄土高原は目の細かいシルトと呼ばれる砂で出来ていて、版築(はんちく)工法で踏み固めればどんどん堅くなり、容易に破壊できなくなります。おまけに乾燥した華北では、降雨量も少ないので土城でも十分な強度を得る事が出来たのです。

 

こうして、突き固めた京にさらに楼を組んで、敵が攻めてくれば、雨あられと矢を射かけたのですから、それは難攻不落でした。

 

 

後漢書では屯田もしていた公孫瓚

貧しい農民

 

正史三国志で読むと、ただ兵糧を運び込んで食いつぶすだけに見える公孫瓚ですが後漢書には、公孫瓚が屯田(とんでん)していたと書かれています。それが本当であれば、10年どころか、それ以上に公孫瓚は籠城できたかも知れません。

 

後漢書(書類)

 

後漢書の記述では、公孫瓚は豊富な食糧を拠り所に包囲している側の麴義(きくぎ)が兵糧切れで退却すると打って出て、数千人を斬る戦果を挙げています。こうして、見ると公孫瓚は決して自暴自棄(じぼうじき)では無かったようです。

 

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曹操孟徳

 

 

味方を救援しなかったは嘘?籠城する将兵の心の拠り所だった公孫瓚

公孫瓚

 

易京の包囲戦では、公孫瓚は援軍を送れば癖になり必死で戦わないとして敢えて援軍を送らなくなったので、バカ臭くなった将兵は次々に降伏して公孫瓚は、自分の首を絞めたとありますが、それは、三国志の本伝ではなく、英雄記にある記述です。逆に本伝には、公孫瓚が黒山賊と呼応して、袁紹軍を挟み撃ちにしようと城を出ようとすると長史の関靖(せきせい)が止めて、こう言っています。

 

黒山賊

 

 

「すでに土山は崩壊して守備力は大きく減退し、兵の士気も低下しました。

しかし、それでも将兵が頑張っているのは砦の内部の老幼を愛するが為と

将軍が心の支えになっているからです。

 

ここは将軍が動かずに、守りの中心になれば、いずれ袁紹軍の兵糧が尽きて

退却しましょう、そうすれば、離れた将兵も再び戻ります。

もし、ここで将軍が城を捨てれば、軍から求心力がなくなってしまい、

易京は、ただ砂の上に棒が立っているだけの危うきに陥ります。

そうなってから、公はどうやって再起するおつもりか?」

 

 

こう言われて公孫瓚は自ら出撃するのを思い止まります。これが事実なら公孫瓚は人心を得られないどころか、守備軍の心の支えだったという事になります。

 

公孫瓚特集

 

 

 

袁紹は地味な坑道を掘り続けて、ようやく公孫瓚の本陣を潰した

袁紹穴を掘る

 

5年に及ぶ籠城戦で、袁紹は地道に十重の塹壕と京と楼を破壊します。それでも、最期にそびえる高さ30メートルの土壁は攻めあぐね、ここから、坑道(こうどう)を掘っていく事になりました。英雄記の記述では、袁紹は重さがある楼に目をつけて、攻撃部隊を二つに分けて、一つに坑道を掘らせて、楼の真下まで掘り進みそこを木材で押し上げてから、柱に火を放って焼き捨てると、楼は自重で崩壊したと書かれています。

 

後漢書の記述では、袁紹の攻めはもっと苛烈でした。公孫瓚は、息子の公孫続を黒山賊に派遣する時に以下のように言いました。

 

 

半端ないって、袁紹ホンマ半端ないって!

周滅亡の頃の混乱では死体で地が覆われたみたいやけど

ワシ、内心ではそんな事あらへん大袈裟(おおげさ)や思てたんや!

せやけど袁氏の攻撃はオーガやったやん、マジ範馬勇次郎(はんばゆうじろう)やん

雲梯車(うんていしゃ)衝車(しょうしゃ)も城壁に舞い上がるし、太鼓と角笛は地中までドンドコ!

昼間も夜も攻められて精神的に追い詰められて何も言えへん

死体は放置されて、鳥に食われて泥水はだんだん増えてきてるんやで

こんなん袁紹以外に出来る?

出来るなら連れてきてみて!

袁紹ホンマ半端ないって!!!

 

少々、意訳が入っていますが、袁紹の攻めは鬼のようで公孫瓚は精神的に追い込まれていたのです。

 

公孫瓚

 

 

公孫瓚は、黒山賊との連携が失敗し、本丸に敵軍が迫ると袁紹に敗れた事を悟り妻子を殺して自殺します。ここでも正史には、英雄記に見られるような人間不信になり、男子を遠ざけ妾に伝言をさせるというような老害全開の公孫瓚はいません。先に出て来た長史の関靖は公孫瓚の死後に自分だけ生き残る事を拒否して袁紹軍に突撃して戦死しています。こうして見ると、公孫瓚には生きて虜囚(りょしゅう)になる事を潔しとせず、従容(しょうよう)と死を選ぶ立派な英雄の生きざまがあるのです。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

こうして見ると、易京の戦いは公孫瓚の失点で負けたというより袁紹が粘り強く5年もかけて攻め続けた効果により、力尽きて敗れたという方が正確でしょう。

 

公孫サン(公孫瓚)

 

不幸にして袁紹には公孫瓚以外には敵がなく、曹操(そうそう)も子分のような扱いで頼みの黒山賊もほぼ崩壊してしまっては、起死回生(きしかいせい)を図る方法も無かったという事になります。ちなみに易京は、この後も北の重要拠点として存続し続けましたが、五胡十六国時代に、後趙(こうちょう)石虎(せきこ)によって取り壊されました。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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