考古学は思わぬ事実を私達にもたらす事があります。文献には、出てこない古代の日常が遺物の発掘を通して分かったりするのです。
西暦280年、およそ100年ぶりに中国を再統一した西晋の都、洛陽には、三国の遺臣たちが集められましたが、その中には安楽公に封じられた劉禅もいました。劉禅には宮殿の郊外に屋敷が与えられますがその隣には○○さんが住んでいたのです。
洛陽の発掘により判明!劉禅家の隣は孫晧家
こちらの画像は、西暦280年以降の西晋の都、洛陽の地図です。考古学的な発掘により、宮殿の跡と官公庁の配置が分かりましたが、同時に王宮の郊外の発掘により、三国志のメジャーな人物の住まいまでが判明する事になりました。
洛陽城の郊外には、263年に蜀漢の滅亡によって降伏し洛陽に遷されて安楽公に封じられた劉禅の邸宅と280年に降伏して洛陽に遷され、帰命侯に封じられた孫晧の屋敷が隣同士で存在したのです。
劉禅と孫晧は会話を交わしたりしたのか?
共に晋に降伏した蜀と呉の元君主同士、一体、どんな会話をしたのか?
そんな風に想像が膨らみますが、実際には、劉禅の降伏は263年、孫晧の降伏は、280年で17年の開きがあります。
それに劉禅は、271年には死去しているので、280年に降伏した孫晧とは身近に会う機会はありませんでした。ただ、劉禅と孫晧の子孫たちは、その後も洛陽に留まっているので、お互いに顔を合わせる機会もあったと考えられます。
もっとも、劉禅が公であるのに対し、孫晧は侯で1ランク地位が低く、逆に、劉禅の息子達は役人として晋の宮廷に仕えていないのに対し、孫晧の子供たちで王に封じられた子息は郎として取り立てているので劉氏は有閑階級、孫氏はお役人となり宮廷では会えなかったかもですが宴会などに呼ばれる事はあったかも知れません。
子孫同士「お互い、最後は不甲斐なかったね」とか話し合う機会もあったのでしょうか?
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■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■
用心深い司馬昭の性格
地図を見ていると、司馬昭の屋敷は武器庫の隣に存在しています。司馬昭はクーデターで曹爽を追い落として実権を握ったので、さらなるクーデターを怖れ、武器庫の側に屋敷を持ったのかも知れません。司馬昭の家の道一本の隣には、追い落とした曹爽の屋敷もあります。
お互いに、相手の屋敷を睨みながら陥れる為の計略を練っていたとしたら、この距離には微妙な緊張感を感じますね。
曹髦が弑逆された距離
魏の4代皇帝の曹髦は、西暦260年、重臣の司馬昭の専横に耐えきれずに、召使いの李召や焦伯を伴い数百人で司馬昭の屋敷を襲います。
しかし、計画は密告でだだ洩れになっており、司馬昭の懐刀の賈充が、軍勢を率いて待機しており、曹髦は返り討ちにされました。曹髦が寝起きをしていたのは宮城でしたから、やはり門を出て、司馬昭の邸宅はすぐの所にあります。
あるいは、曹髦は計画が露見しなければ短時間で司馬昭の首を取れるともくろんでいたのでしょうか?
ただ、司馬昭は早くから曹髦を警戒しており、宮殿の近衛兵は常に定員を割るなどあまり曹髦に軍備を与えない体制を取っていました。タイミングだけで、どうにかなる事は無かったでしょう。もし、司馬昭の屋敷がもう少し離れていれば、曹髦は無謀な蜂起を思い止まったかも知れません。
三国志ライターkawausoの独り言
文書からは、伺い知れない事が地図からは容易に浮かび上がります。特に、宮城から司馬昭の屋敷までの大変な近さは、迅速に行動すれば司馬昭の首を討ち、武器庫を奪って武装を強化できると曹髦は考えてしまったかも知れないと夢想してしまいます。
また、劉禅と孫晧の屋敷の近さにもなんらかの意図を感じなくもありません。或いは、お互いの家に相手を監視するよう司馬炎は言い含めていたかも知れずそうだとすれば、お隣さんでも、かなりよそよそしい雰囲気だったかも知れないですね。
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