劉備亡き後、劉禅を蜀の皇帝に立てて政治の実権を握った諸葛孔明。劉備が皇帝に即位した後に丞相に就任し独裁的な政治を行った事が分かっています。ところが、この蜀では無双状態の孔明を面と向かって叱りつけた部下が存在していたのです。そんな命知らずが本当に居たのか検証してみましょう。
諸葛亮を叱った楊顒
諸葛孔明を叱った男は、楊顒という人物です。楊儀の一族で、劉備に従い入蜀し巴西太守から孔明の引きを受けて丞相府の主簿(属官)を勤めていました。しかし、仕事中毒に陥っていた孔明は主簿を信用していないようでこっそり自分でも帳簿を調べていたようです。ところがそれを楊顒が目撃していました。そこで、直ちに楊顒は諸葛亮を諫めたのです。
人の仕事を取らないで自分の仕事に専念して下さい
楊顒は、この時、ダイレクトに私の仕事を取らないで下さいと言ったわけではありません。何と、孔明相手にたとえ話をしています。これはつまり、孔明が仕事についてはかなりのワカランチーノであり、普通に仕事を取るなと説明しただけでは効果がないと考えたからではないかと思います。
楊顒はこれを家庭の事に例えて言いました。
「例えば、丞相の家では奴僕に畑を耕させ、婢に炊事を任せ、
ニワトリには時を告げさせ、犬は番犬として盗人に備えさせ
牛には重い荷物を背負わせ、馬には遠路を走らせているとします。
それぞれが決められた仕事をこなし、効率よく働いていればこそ、
皆が満足し、枕を高くして休めるというものでしょう。
しかし、それぞれの仕事を主人が一人でやろうとしたらどうでしょう?
心も体も疲労困憊し、おまけに何一つとして仕事は終わりません。
それは、主人の知恵が奴婢やニワトリや犬や馬に劣るからでしょうか?
いえ、そんな事はありません。
ただ、主人が自分が成すべきルールを踏み違えているのです。
ですから古来より、座して論じるのは三公、事務を行うのを士大夫と
称しているのです。
この時、諸葛亮は何かを言いたげだったのか、楊顒はそれを制してさらに言葉を続けました。
だから、宰相の邴吉は道で行き倒れた人間の事は管轄外と構わず
牛が喘いでいる事を不吉の前兆として憂い、陳平は国家の倉に米や穀物が
幾らあるかを全く知らず、担当者にお聞きくださいと申したのです。
彼らは誠に自分の為すべきを知っている人だと言えるでしょう。
しかるに丞相は、帳簿の検査のような些末な事までご自身でやる
これは働きすぎというものですよ!」
かくしてとぼけようがない程に厳しく言われた孔明は楊顒に陳謝したのです。
【北伐の真実に迫る】
楊顒が死んだ時
楊顒はその後東曹属になりますが、時期不詳ながら孔明より先に死んだそうです。孔明は、楊顒の死を悲しみ三日に渡って泣き続けました。同時期に西曹令史賴恭の子の賴広も亡くなったそうで、孔明は長史参軍の張裔、そして蔣琬に向けた文書で「賴広に続いて楊顒も失った、これは国家にとり大きな損失だ」と書いています。こうしてみると諸葛孔明は、楊顒を高く買っていたのですね。
三国志ライターkawausoの独り言
蜀の最高権力者である諸葛亮に物申す部下というのは、今回挙げた楊顒以外には見当たりません。いかに正論であるとはいえ上司に物申す、しかもその欠点を指摘するのはかなり勇気がいる事なので、楊顒は筋の通った人物だったのでしょう。
そして、その諫言には厳しさだけでなく孔明の体調を気遣う愛が感じられます。丞相になってから激務が当たり前だった孔明にとっては、自分の体調を気遣うような楊顒の発言は耳が痛くもありましたが、同時に本当に有難いと思えるものだったのでしょう。だからこそ、一言も弁解せず陳謝したのだと思います。ただ、楊顒の諫言があっても、細々した事まで自分で決済する孔明の癖は結局治らず過労死を招いてしまうのですが・・
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