孫呉後期の名将としてその名を歴史に刻んだ・陸抗。妻は夏侯覇・義弟は司馬昭と名将ぞろいの親族を持つ羊祜。
この二人は孫呉と晋の敵対する勢力に仕えていましたが、領土を接することになります。そしてこの二人が互いが治める地域に接した時、あることが無くなるのです。それはいったい何が無くなったのでしょう。またどうして無くなったのでしょうか。
近隣に陸抗と羊祜がいるとどうなったのか?
陸抗は荊州一帯を治める軍事都督として就任し、晋に対してにらみを利かせていました。晋は荊州北部に羊祜を荊州都督に任命し、陸抗に対する備えに配置します。こうして両者は荊州で対峙することになりますが、激しく戦争を行って領土を奪うような真似をしませんでした。
むしろ陸抗と羊祜が就任してから戦争が孫呉と晋の国境で発生せず平穏な日々が続いたそうです。三国志(魏・呉・蜀)が鼎立してから蜀・魏国境や孫呉・魏の国境で戦が無かった事なんてほとんどありません(小競り合いを含む)。しかし陸抗と羊祜がこの地に赴任してから、戦争を行うことをしないで平穏な日々が続くことになります。どうして敵対している国同士なのに戦いが発生しなかったのでしょうか。
互いの実力が拮抗しているのを知っていたから
陸抗と羊祜はどうして戦うことをしなかったのでしょうか。それは正史三国志呉書などの資料によれば、孫呉の陸抗も晋の羊祜もそれぞれ相手と変わらない実力を持っていると認識していたからだそうです。そのため陸抗も羊祜も互いの領土へ攻撃を仕掛けることを一切禁じるのでした。しかし両者は相手に負けない為にあることで競い合っていました。二人はいったい何で競い合っていたのでしょうか。
両者が競い合っていたのは徳
陸抗は晋の荊州都督である羊祜と実力が拮抗しているのを知っていたので戦争を仕掛けるような事をしませんでした。しかし陸抗は羊祜に負けない為にあることで晋に優位に立とうと考え、実行に移します。陸抗が考えたのは晋の領土よりも自分たちの領土の方が徳を持って治めている事を晋の領民へアピールすることでした。
陸抗は国境警備をしている自分の守備兵たちへ「領民はもっぱら徳をもって治めるべきだ、敵が力づくで領民にむごい統治をしているようであれば、俺たちは目先の利益を追求するのをやめて、相手よりも徳で勝ろうではないか」と命令。陸抗は国境守備兵へ上記のように言っていますが、一体どのような事なのでしょうか。上記の命令に関してこのエピソードが残っています。
孫呉と晋の国境地帯には漢水が流れているのですが、この流域で狩りを行った際、晋の兵士が先に獲物に傷を負わせた場合でもその獲物が孫呉の領土内へ入ってくれば、晋の兵士達へ獲物を返還するようにと命令を下します。また晋の領土内から牛が孫呉の領土へ逃亡してきた時は、必ず晋の領土へ牛を追い返すようにとの布令も出します。
このように陸抗は晋よりも孫呉の方が徳において勝っている事をアピールすることで自分と同じ実力の相手よりも勝っていることを証明する作戦を展開するのでした。しかし羊祜も陸抗と同じような作戦を展開した為、両者の作戦も拮抗してしまいます。そして陸抗と羊祜の作戦が拮抗した事で国境付近で戦が無くなり平穏な時間が生まれることになるのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
また陸抗と羊祜は互いに親友同士でした。二人にはこのような逸話が残っています。陸抗が風邪をひくと羊祜が心配して薬を送ります。陸抗は部下たちが「敵からの薬なんて飲まない方がいいですよ」と注意したにもかかわらず、彼らの注意を気にしないで羊祜からもらった薬を飲んでいます。
また陸抗も羊祜へ酒を送ったりしています。羊祜も部下から「陸抗から送られた酒を飲むのをやめた方がいい」と注意されますが、彼も気にせず陸抗からもらった酒をガブガブ飲んで酔いしれたそうです。このようにかなり稀有な親友関係を築いた陸抗と羊祜でした。
参考 正史三国志呉書など
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