曹操より十八歳年下の禰衡。曹操が天子の身柄を確保し許に都をかまえた頃、禰衡は許都に訪れました。許都では才能を鼻にかけ傲慢にふるまい、他人をこきおろしてばかりいて、自分に及ばない者とは口もきかず、みんなに嫌われていました。
人を訪問した時に差し出すための名刺を持ち歩いていましたが、誰にも会いに行かないため名刺は空しくぼろぼろになっていくばかり。曹操に仕えようなどという気もさらさらありません。こんな禰衡をなぜだか孔融は天子に推薦したのですが、その推薦文の言葉遣いがひどいのです。
毒舌禰衡、孔融と楊修のことだけは認める
禰衡が許都に入った時、許都には名だたる人物がひしめいていたのですが、禰衡は誰にも自分を売り込みに行かず、浪人のままぶらぶらしていました。陳羣や司馬朗に媚びを売ればいいじゃないかとアドバイスする人がいて、それに対して禰衡はこう答えました。
「俺に豚殺しや酒売りに媚びを売れって言うのかい」
アドバイスした人はたずねます。
「許にいる人物のうち、誰がいちばんましなのかな」
「年長の者では孔融、若い者では楊修」
「曹公(曹操)、荀令君(荀彧)、趙湯寇(趙融)は世を蓋(おお)うに足る人物じゃないか」
「曹操はそれほどのものでもない。荀彧は見た目がいいから弔問の使者ぐらいには使えるだろう。趙融は恰幅がいいから台所を取り仕切って客に料理を出す係にはうってつけだ」毒舌でクソ生意気な禰衡ですが、孔融と楊修のことだけは認めていました。
孔融が天子への推薦文で禰衡を大絶賛
孔融も禰衡の才を認めており、天子に禰衡を推薦する文章を書きました。タイトルは「薦禰衡表(禰衡を薦むる表)」その中で、孔融は禰衡のことをこのように大絶賛しております。
処士平原の禰衡、年二十四、字は正平、
淑質貞亮にして、
英才卓躒たり。
初め藝文に渉り、
堂に升り奥を覩る。
目 一たび見る所、輒ち口に誦し、
耳 暫く聞く所、心に忘れず。
ふむふむ、ナイスガイで才気煥発、博覧強記で超天才ね。
性道と合い、思い神有るが若し。
弘羊が潜計、安世が黙識、
衡を以て之を準ぶるに、
誠に怪しむに足らず。
忠果正直にして、
志霜雪を懐き、
善を見ては驚くが若く、
悪を疾むこと讐の若し。
任座が抗行、
史魚が厲節も、
殆ど以て過ぐること無し。
自然体のままでも天地の道理に通じていて、
桑弘羊さんの計算力や張安世さんの暗記力にまさるともおとらない。
正義漢で一徹者、と。
鷙鳥百を累ぬるも、
一鶚に如かず。
そこらの猛禽類が百羽いたところで、一羽の鶚(みさご。鷹に似た大鳥)にはかなわない。なんですと、これは聞き捨てなりませんぞ!
ザコが百人いたところで、禰衡くんにはかなわない
そこらの猛禽類はそこらの士大夫という意味、一羽の鶚(みさご)は禰衡のことでしょう。
そこらの士大夫といえば、許都に集まっている士大夫たちのことになります。
孔融は禰衡を推薦するにあたり、天子のお膝元にひしめく人材のことをザコ扱いしております。
これ、筆が滑ったんじゃなくて、絶対わざと書いていますよね。
天子に奉る文書なら慎重に推敲しているはずですし、文章の美しさからしても、しっかり練った文章であるはずです。
孔融は天子にあてた表文の中で、曹操や曹操の愛する人材たちを、禰衡くんとは比べものにならないザコだと言ったのです。
三国志ライター よかミカンの独り言
曹操はかねがね孔融のことを我慢のならぬ奴と思っており、最後には罪状をつけて孔融を処刑しています。
孔融はかねがね曹操に対して反抗的な姿勢をとっていたのでしょう。
その孔融が大絶賛した禰衡は、曹操の愛する荀彧を見た目だけがとりえのでくのぼう扱いした毒舌男です。
禰衡はやがて許都にいられなくなって、荊州に流れていった挙げ句、毒舌がもとで殺されてしまっています。
命がけで毒舌を振るいたくなるほど、当時の世の中が彼らにとっては我慢のならぬものだったのでしょう。
ロックな生き様だなぁと思いました。
出典:『文選』、正史『三国志』崔琰伝、
正史『三国志』荀彧伝の注釈に引用されている『典略』
書き下し文引用元:『新釈漢文大系82文選(文章篇)上』明治書院
1994年7月15日 原田種成
一部表記を変えました。
(旧字を当用漢字に変える、旧仮名遣いを現代仮名遣いに変える、など)
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