2020年のNHK大河ドラマは明智光秀を主役にした「麒麟がくる」です。
傑出した武将でありながら、前半生には謎が多く、また主君、織田信長を討った事から
逆臣、裏切者の悪名を背負った光秀がどのように描かれるのか楽しみです。
さて、今回は戦国武将には欠かせない鎧について説明します。
明智光秀は、どのような鎧を着用していたのでしょうか?
明智光秀が愛用した鎧紅糸縅品小札二枚胴具足
明智光秀が愛用した鎧は紅糸縅品小札二枚胴具足です。
日本の鎧は、このような長い名前がよく付きますが、これは見た目を表しています。
最初の鎧赤糸とは、黒漆塗に赤糸の組紐が使われている事を意味しています。
赤と黒ですから、非常にコントラストがキレイである事が想像できますね。
次に縅品小札というのは、赤糸で小札という鉄板を縅す:綴り合わせるという意味です。
元々、革紐や色糸は、ただ小札を綴る役割だったのですが、次第に複数の色糸を使って
華美に見せるようになり、他国に類を見ない彩を持つ日本の鎧が完成しました。
武士は家単位で働くので、手柄を主君にPRする必要があり、派手で印象の強力な鎧が
好まれるようになったようです。
本当は目立つと鉄砲や矢の標的になりやすいのですが、
戦場では目立ってナンボなのでリスクより宣伝効果を取りました。
最後の二枚胴具足というのは、この鎧が、胸と背中の二枚の鉄胴で出来ている具足
(甲冑)であると説明しているのです。
鎌倉から南北朝頃までは、日本の鎧は大鎧と呼ばれる三枚鉄板で豪華なものでしたが、
馬上戦闘用で重く、動きが制限されるので戦争が歩兵戦に移行した室町以後になると、
着やすく動きやすい二枚鉄板の当世具足や西洋の鎧の影響を受けた南蛮鎧が登場しました。
戦国武将の個性的な甲冑
戦国武将には個性的な甲冑で有名な人物がいます。ここでは、個性的な甲冑で有名な戦国武将を取り上げます。最初は山陰地方の戦国大名だった尼子義久の家臣山中鹿之助です。尼子氏が毛利元就に滅ぼされると、尼子家再興を目指して織田信長の中国地方攻めに協力します。山中鹿之助の甲冑は甲に鹿の角のようなものが特徴として挙げられます。
次に、南光坊天海の甲冑について取り上げます。甲に大きな輪がありますが、写真を見ると重すぎて動けるのか気になります。
次に、井伊直政の甲冑について取り上げます。井伊直政の甲冑は赤備えで有名です。武田信玄の家臣だった飯富虎昌の赤備えに倣ったのかもしれません。直政は常に前線で戦っていたことから本物の甲冑は傷だらけだといわれています。
真田幸村の甲冑も赤備えです。真田家は幸隆(幸村の祖父)の代から武田信玄・勝頼に仕えていました。武田信玄の家臣だった飯富虎昌に倣ったのかもしれません。 最後に、直江兼続について取り上げます。2009年の大河ドラマ『天地人』の主人公になったことがあります。直江兼続の甲には愛という字があります。戦国時代で一番個性的な甲で話題になりました。
明智光秀の兜は六十二間筋兜
次に、鎧とはセットである兜についても見てみましょう。
光秀の兜は筋を細かく立てた六十二間筋兜で前立に三鈷剣が付いています。
この三鈷剣とは、仏教の法剣で不動明王の持ち物とされ、一切の魔を断つそうです。
様々な文化に造詣の深かった光秀ですから、仏教にも通暁していたかも知れません。
「我に手向かうものは全て魔なり容赦なく斬る」
それだけの決意をして、いつはてるとも知れない乱世を戦い続けたのでしょうか?
どうして光秀の鎧は後世に伝わった
逆臣として滅ぼされた明智光秀の鎧はどうして現在まで伝わるのでしょうか?
徳川家康の家臣で、一時明智光秀の家臣として出向していた木俣守勝がいました。
この木俣守勝は有能な人で光秀にも深く信用されたそうです。
やがて木俣が徳川家康に戻るように命じられました。
そこで、名残を惜しんだ明智光秀が餞別として木俣守勝に送った鎧と手紙が
現在まで残されているのです。
木俣守勝は本能寺の変で織田信長が自害したことを知ると、徳川家康の伊賀越えを警護しました。関ヶ原の戦い後、近江国彦根藩藩主となった井伊直政・直勝親子を家老という立場で補佐しました。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は、明智光秀の鎧、及び戦国大名の個性的な甲冑について取り上げました。今回取り上げた個性的な甲冑について、ごく一部で他に個性的な甲冑があったといわれています。有名な戦国武将ではありませんが、ハマグリの貝殻やグーの形をした甲があります。個性的な甲冑にも注目したいと思います。
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