于禁は関羽に降伏した後、荊州を攻略した呉の捕虜になってしまい、呉で数年暮らすことになります。その後于禁は魏に帰ると曹丕からいじめを受けて亡くなってしまいます。しかし于禁は曹丕だけにいじめを受けていたわけではなく、呉にいるときもある人物からいじめを受けていたのです。
蜀から呉へ
于禁は関羽の捕虜になった後、江陵へ移送されこの地で捕虜となっていました。その後劉備との同盟を破棄して関羽が統治していた荊州を奪った孫権の捕虜となってしまいます。于禁は孫権の捕虜になったとき、捕らえられていた縄をはずされ、孫権の方から会見を申し入れ、客将として遇されることになります。しかしここから于禁のつらい日々が始まっていくことになるのです。
孫権と馬を並べていると…
于禁は孫権から客将として優遇されることになります。孫権は于禁と一緒に馬を走らせようとして隣に来るように言います。するとそこにたまたま虞翻が居合わせます。虞翻は于禁が孫権と一緒に馬を並べて歩こうとしている姿を発見すると大声で「曹操を裏切って降伏してきたお前が、何の権利があって殿と一緒に馬を並べることができるのか。」と怒鳴りつけて于禁を叱ります。
虞翻は于禁を叱っただけでなく持っていたムチを振るって彼を打ち据えようとします。しかし孫権が激怒して「やめろ。虞翻」と大声で抑えたため事なきを得ました。虞翻は孫権に怒られたため、何もしないでその場を去りましたが、于禁いじめはまだ始まったばかりでした。
【北伐の真実に迫る】
宴会でも激怒
孫権は大きな船に諸将を招いて宴会を催します。虞翻も孫権に招かれて宴会に参加することに。このとき孫権は客将となっていた于禁も招き、孫権主催の大宴会が始まります。宴もたけなわになった頃、孫権が音楽をかなでさせます。すると于禁は涙を流して音楽に聞き入っていました。
于禁が音楽を聴いて泣いている姿を見た虞翻は「貴様は音楽を聴いて泣いているようだが、本当は泣くつもりなんてないのであろう。そうまでしてまで許されたいのか。」とここでも大声を張り上げて激怒。孫権は虞翻の言葉を聴いて宴会が不機嫌のままだったそうです。虞翻の于禁いじめはこれだけにとどまりませんでした。
于禁は処刑するべし
孫権は魏との講和がまとまると客将として遇していた于禁を魏へ送り返すことにします。すると虞翻は「于禁は数万の兵士を率いていたにもかかわらず、関羽に敗北して捕虜になりました。魏へ送り返してもそのまま遇されることになりましょう。わが呉に取って彼を魏へ送り返しても何の損失にもなりませんが、降伏した罪人を放置したことにはなりましょう。そこで彼を処刑して忠義を持つことができなかった人物がどのような結末を迎えることになるのか、全軍に見せしめた方がいいと思います。」と孫権に意見を述べます。孫権は彼の提案を無視して于禁を魏へ送り返すことに。于禁は最後の最後まで虞翻にいびられながら魏へ帰還することになるのでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
于禁は呉にいた時、虞翻に会えば必ず嫌味を言われていました。しかし魏に帰った于禁は虞翻を褒め称えて恨み言をひとつも言わなかったそうです。魏の皇帝・曹丕は于禁の言葉を聴いていつ魏に来てもいいように彼の席を作っていたそうです。それにしてもどうしてここまで虞翻は于禁のことが嫌いだったのでしょうか。
レンの推測ですが、正義の心が強すぎたのではないのでしょうか。于禁は魏の将軍として戦場に赴いていたにもかかわらず、戦を放棄して降伏する道を選びます。虞翻は于禁が降伏したのが自分の正義に反する行為であったため、彼を許すことができずに呉にいる間ずっといじめ続けていたとレンは考えるのですが、皆様はどのように思いますか。
■参考 正史三国志呉書など
関連記事:玉に瑕(きず)!アルハラ暴君・孫権
関連記事:【マニアック向け三国志】捕まったことで運命の君主と出会った王朗(おうろう)