前漢王朝には素晴らしい皇帝がたくさん輩出されました。
高祖・劉邦はもちろんのこと、文帝や景帝、武帝、宣帝…。そうそうたる顔ぶれです。しかし、14人もいた前漢の皇帝の中には歴史家たちによって微妙な評価が下された皇帝もチラホラ…。中でも不名誉な烙印を押されたことで有名なのが元帝でした。
命を狙われた皇太子
元帝は宣帝の長男です。宣帝がまだ庶民として暮らしていた頃、糟糠の妻である許平君との間に生まれました。元帝は宣帝が立ってしばらくしてから皇太子の位についたのですが、宣帝を押し立てた外戚勢力・霍氏に疎ましがられてしまいます。霍氏は後に皇后となる霍成君が生んだ子を皇太子にしたいと考えたのです。
元帝が目障りで仕方が無かった霍一族はついに元帝と許平君の暗殺を計画。元帝の暗殺については未遂で済んだものの、母・許平君は毒殺されてしまいます。あまりのことに宣帝は怒髪天。長年連れ添った妻を殺され、更に愛する息子を殺されかけたことで怒り狂った宣帝は彼らの頭首とも言える霍光の死後反乱を企てた霍一族を粛正し、霍皇后も廃位してしまったのでした。
儒教が好きすぎてパパ・宣帝に廃嫡されかける
自身の後ろ盾ともいえる存在だった霍一族を愛する息子・元帝のために粛正した宣帝でしたが、息子のある一面を見て「やっぱりコイツ皇帝にできないかも…」と思い始めます。
実は、元帝は儒教が大好きだったのです。それだけであれば問題は無いのですが、元帝は儒教に心酔するあまり、あまりにも現実離れした妄言を吐く一面がありました。父・宣帝は信賞必罰をモットーに法家思想を取り入れて善政を行った皇帝。また、その生い立ちからその当時としては類稀なるリアリストでした。そんな父・宣帝は夢見がちな息子・元帝が政治を動かすことについて強い危機感を覚えたのです。
宣帝は元帝に跡継ぎが生まれていないことを理由に本格的に廃嫡を検討。ところが、やはり最愛の妻・許平君の忘れ形見であることや臣下たちの反対、そして跡継ぎである成帝が生まれたことを理由に結局宣帝は元帝の廃嫡を取り下げます。リアリストである宣帝もやはり愛する息子・元帝のことが可愛くて仕方が無かったのでしょうね。
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ようやく即位!やっぱり儒教が大事だもんね
宣帝が崩御し、ついに元帝が即位。しかし、宣帝の心配をよそに元帝は儒教に重きを置いた政治を展開します。財政を安定させるために倹約に励むなど積極的に民草を安んずる政策を打ち出したのですが、儒家の言葉を鵜呑みにしおもむろに鉄や塩の専売制を廃止して混乱を招くなど父・宣帝の頃のような治世を築くことはできず…。それでも元帝は現実を直視せずに儒家の語る甘い理想に耳を傾け続け、国政を混乱させ続けたのでした。
あれ…?なぜか宦官が台頭してきた
儒教を重んじた元帝でしたから、元帝の時代には儒家たちが中央で堂々とはびこっていたと思われがちですが、そうとも言えなかったようです。実は、宣帝の側近であった宦官たちと元帝が招き入れた儒家たちの間で激しい権力争いが勃発。この争いを制したのはなんと宣帝の側近であった宦官たち。表向きは元帝相手にご機嫌取りをしていた宦官たちですが、裏では自分の思うままに政治を動かそうと邪魔者たちを押しのけて暗躍していたのでした。その結果、元帝の時代は宦官がのさばる時代となったと言われています。
三国志ライターchopsticksの独り言
宦官の専横を許していたもののやはり儒家を重んじていた元帝の治世は正直滅茶苦茶だったようです。
後漢の歴史家である班彪はそんな元帝の治世を「優柔不断」と一刀両断しています。理想主義が過ぎて現実が見えていなかった元帝のせいで、後にインチキ儒者・王莽による簒奪事件が起こってしまったなんていう声も多く上がっています…。元帝がもう少し父・宣帝の言葉に耳を傾けていれば漢王朝が途中で途絶えることは無かったかもしれませんね。
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