みなさんは「宋」という王朝をご存知ですか?
上記の宋は紀元前の春秋時代に存在した「宋」でも、3世紀~5世紀の南北朝時代に存在した「宋」でもありません。
今回紹介するのは10世紀から13世紀に存在していた「宋(北宋・南宋)」です。
「・・・・・・?」
こうなった人は大正解です。
筆者も最初はそうでした。
でも、今回紹介する宋だって面白いところはあります。
というわけで、西暦960年~1279年まで中国に存在した宋王朝に関して解説します。
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乱世から統一へ
天祐4年(907年)に繁栄を誇った唐王朝は滅亡しました。
それから半世紀、中国は北では5つも王朝が交代(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)して、西から南では勝手に王を名乗った10個の国(前蜀・後蜀・荊南・楚・南漢・呉・南唐・呉越・閩・北漢)が存在しました。
半世紀でこの数は異常です。
1つの国の寿命は長くて10数年、短くて4年です。
この時代を〝五代十国〟時代と言います。
そんな乱世に終止符を打ったのが、後周(こうしゅう)の近衛兵の団長に就任していた趙匡胤です。
趙匡胤の主人は皇帝として立派でしたが、幼い息子と奥さんだけを残して39歳でこの世を去りました。
これではすぐに、他の国に侵略されると思った趙匡胤の弟と部下は、緊急事態なので皇帝になることを頼みました。
趙匡胤も仕方なく了承しました。
これが宋の誕生です。西暦960年の話です。
文官優位の政治へ
趙匡胤はその後、次々と他国を平定しました。
また、官吏登用試験である科挙の整備も行いました。
科挙は隋の時に創設されましたが、合格の基準値が貴族優先になっていたので平等性に欠けていました。
しかし、半世紀に渡る乱世により貴族が没落したので、これを機会に趙匡胤は科挙制を変更しました。その結果、受験・合格に身分の差別無しをつくりました。
この科挙制により、宋は文官優位の政治体制を構築しました。
一方、武臣たちは、権力を削がれていきました。
遼との戦 そして和睦へ
趙匡胤は天下統一を目前にして亡くなりました
後を継いだのは弟でした。2代皇帝太宗です。
太宗の時に宋は天下統一を成し遂げます。
しかし宋には目の上のタンコブがいました。北方にいる〝遼〟という国です。
太宗は遼を2度も攻めますが、全て敗北に終わりました。
しかもその時の傷がもとで、太宗は亡くなりました。
宋は3代皇帝真宗になって、急いで遼と和議を締結しました。
これを〝澶淵の盟〟と言います。
時代を超えて愛される中国四大奇書「はじめての西遊記」
新法党と旧法党
平和になった宋でしたが、その後は危機的な財政難に陥りました。
この状況を打開するために登場したのが王安石という若手政治家でした。彼は今までの不便な法律を全て改正しました。
これが面白くないと感じたのが、司馬光率いる大御所政治家です。
司馬光は有名な歴史書『資治通鑑』の著者です。
彼らは王安石の悪口と「新法は不便」と不満を述べました。
これが本当に不満を述べるだけで、打開策は1つも出しませんでした。
逆にそういった点を王安石に指摘されて、黙らされる始末です。
この時の争いで新法賛成派を「新法党」、反対派を「旧法党」と呼びます。
結局、この争いは泥沼化して王安石が死んでも、決着はつかずに「新法党」、「旧法党」という言葉も政治家の争いの道具に使われるだけでした。
金軍侵入 滅亡
8代皇帝の徽宗の時代は、好景気のバブル時代でした。
しかし北では新しい勢力が誕生しました。
今まで遼に虐げられていた女真族という民族が、反乱を起こして「金」という国をつくりました。
この話に乗じたのが宋です。
遼に対しての怨みを晴らすために金軍と同盟を結び、遼を滅ぼしました。
ところが領土面での交渉になると宋は煮え切らない態度になりました。
これで金を完全に怒らせました。
靖康2年(1127年)、宋は金軍の攻撃を受けて降伏して、8代皇帝徽宗・9代皇帝欽宗、その他の皇族は北方に拉致されました。
これを〝靖康の変〟と言います。
ここに宋は滅亡しました。
復活、宋王朝!
ところが徽宗の息子で偶然、拉致を免れた人がいました。
彼が南で即位して宋王朝を復活させました。
これにより中国史の世界では、靖康の変以前の宋を〝北宋〟それ以降は〝南宋〟と呼んで区別しています。
南宋が早速とりかかったのは、金軍との戦でした。
悲劇の武将岳飛が、活躍したのもこの時です。
この戦は10年以上も続きましたが、両者とも疲弊してしまい、最終的には和議という形で収まりました。
岳飛は交渉に邪魔な存在だったので、毒殺されました。
専権宰相の時代
南宋は有名な4人の宰相がいました。
秦檜、韓侂冑、史弥遠、賈似道です。
4人とも就任時期は違いますが、強権的な政治を行ったことで知られています。
特徴として知られているのは、皇帝の側近となり、手足となる部下を何人も持っていたことです。
モンゴルとの戦へ そしてまた滅亡する
紹定6年(1233年)に南宋は新興勢力のモンゴル(後の元)と組んで、翌年には金を滅ぼしました。
ところが端平2年(1235年)にモンゴルが金から奪った土地を攻撃したので、和約違反とみなされ、モンゴルと戦闘状態になります。
異民族と組んで異民族を滅ぼす・・・・・・が今度は組んだ相手とケンカになる。
この国は何も学習しないのですね。
結局、30年以上かけてモンゴルは南宋を追い詰めました。
領土も削られ、首都の臨安(りんあん)も陥落して、とうとう祥興(しょうこう)2年(1279年)に崖山(がいざん)が最後の戦場となりました。
しかし、装備も大して無かったのであっという間の敗北に終わりました。
最後は幼い皇帝を部下が抱いて、入水自殺することで南宋は滅亡を迎えます。
源平合戦の最終局面である壇之浦の戦いによく似た最期です。
宋代史ライター晃の独り言
以上ざっくりと見ましたが、いかがでしたか。
実は筆者は大学時代にこの時代を研究していたのですが、始めた当初の感想は、
「なんだよ、この時代!地味で面白くない!」でした。
研究も王安石関係に集中したものが多くて、他のものが少なかったのは覚えています。
特に南宋は枯渇状態でした。
しかしながら、そんな枯渇状態の南宋の研究を行った結果、今では宋(特に南宋)が大好きになりました。
今後も宋に関しての情報をお届けします。
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