宋代(960年~1279年)は、庶民の文化が発達した時代で有名です。
唐代(618年~907年)まで文化を独占していた貴族層が没落したので、庶民の文化が花開いたのです。
その中でもひと際目立つのが陶磁器です。
宋代は陶磁器の技術の黄金時代と言われています。
北宋(960年~1127年)の第6代皇帝神宗以後は学問・芸術が一般に普及して庶民の生活も豊かになりました。
そのため、陶磁器の技術も未曽有の発展を遂げました。
ところで、この陶磁器の技術はなぜ流行したのでしょうか。
今回は陶磁器の解説と骨董マニアの宦官童貫について解説します。
陶磁器技術の開始
建隆元年(960年)に北宋は太祖により建国されました。
その後、北宋は第2代皇帝太宗の時に天下統一に成功します。
しかし北方の遼(916年~1125年)との戦いに2度も敗北して、景徳元年(1004年)に和議を結びました。
この和議により、遼と貿易が開始されます。
北宋が遼に輸出していたものの1つに茶がありました。
この当時、北宋ではすでに飲茶が流行していたのです。
茶を飲むには茶器が必要でした。
そのため、陶磁器がたくさん作られるようになったとされています。
もう1つの説として、北宋の銅禁政策により銅を使って勝手にものを作ることが出来なくなりました。
従来の銅器以外にとって代わったのが陶磁器と言われています。
陶磁器の中でもっとも美しいのが青磁と言われています。
青磁は殷(前14世紀ごろ)が起源とされています。
鉄を含んだ釉薬を表面に塗って焼くことで青い色にすることが出来ます。
南宋(1127年~1279年)が最盛期とされています。
北宋の第8代皇帝の徽宗の時は首都の開封に窯があるぐらい青磁ブームだったと言われています。
現在の中国では宋代の青磁を再現しようと研究が進められています。
以前、筆者がNHKの番組を見ていた時に中国の陶器職人が宋代の青磁を再現しようと試みていました。
ところが難航しており、思った以上に成果が出ていません。
今後に期待しましょう。
骨董マニアの宦官童貫の生涯
北宋第8代皇帝の徽宗の治世に骨董マニアの宦官がいました。
童貫と言います。
『水滸伝』という小説に登場する悪役で有名です。
また、軍事権を有していました。
北方謙三の小説『水滸伝』の影響で、童貫は軍隊を率いる異質な宦官という見方があるかもしれませんが、宋代の宦官が軍隊を率いるのは当たり前の話です。
実際に、童貫以外にもいくつも例は存在しています。
話が逸脱したので、元に戻します。
この童貫は、宦官なのに髭(ひげ)が生えていたと言われています。
男性ホルモンが多すぎたのか、もしかしたら偽宦官だったのかもしれません。
筆者は後者の可能性を考えています。
さて、童貫は骨董マニアでした。
童貫は徽宗が書画・骨董に興味があったことを知っていたので、自分の趣味を利用して徽宗に近づき出世しました。
なお、『水滸伝』に登場する悪徳宰相の蔡京が後年出世したのは、童貫と知り合いになり、骨董や書画を収集したからです。
当時の人は蔡京を公相(おやじ さいしょう)、童貫を媼相(ばばあ さいしょう)と呼んでいました。
童貫の有名な活躍は宣和2年(1120年)の方臘の乱の鎮圧です。
主力部隊・残党を含めて、約3年間は戦闘を行いましたが、このために本来行うはずだった遼の征伐に遅れが出てしまいました。
最終的には遼の征伐も行って成功しますが、靖康元年(1126年)に金(1115年~1234年)に攻められた時に、今までの政治の失敗を追及されます。
この時に、蔡京と一緒に流刑にされました。
しかし童貫は護送の途中で死罪にされました。
首が太かったせいで、斬首はかなり苦労したとの話でした。
宋代史ライター 晃の独り言
宋代は陶磁器技術が発展したのは良かったのですが、それを悪用する連中もいました。
それが童貫や蔡京のような連中です。
余談ですけど、宦官=悪という図式は無いです。
宋代でもまともな宦官はいました。
童貫以外の宦官についてはいずれ、解説します。
また、お楽しみに。
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