本能寺の変がなかったら歴史はどう変わったのか気になると思います。今回は、本能寺の変が起こらず、織田信長が全国を統一したならば、世界に進出していたのでしょうか。
世界に進出したとしたらチンギスハンのモンゴル帝国のように世界の覇権を握ることができたのでしょうか。この記事の前半ではチンギスハンの生涯とモンゴル帝国について取り上げます。織田信長については生涯のみ取り上げます。後半では織田信長が全国を統一してから世界に進出したとしたらチンギスハンのように世界の覇者になれるのか考えてみます。
チンギスハンとモンゴル帝国とは?
チンギスハンとは1167年頃にモンゴルに生まれました。チンギスハンと名乗る前はテムジンと名乗り、モンゴル族を統一するとチンギスハンと名乗りました。チンギスハンのハン(汗)とは遊牧民族の君主の称号として使われています。
モンゴル族を統一すると、1211年に中国東北部の金を侵略しました。金とは女真族が中国東北部に建てた王朝のことをいいます。1219年からイスラム圏やロシアの連合軍と戦います。1219年にはシャー王朝を滅亡に追い込みました。1223年にロシア諸侯連合軍と戦いました。
1226年にチンギスハンは、金と同盟を進めていた西夏との戦争を始めます。チンギスハンは1227年に病死しましたが、オゴタイハンが西夏を滅ぼしました。西夏を滅ぼした際、君主と人民を殺害したことで全滅させました。
オゴタイハンは1236年以降、ロシアからヨーロッパにかけて積極的に戦闘と虐殺を繰り返します。モンゴル帝国はヨーロッパ侵略をしていましたが、オゴタイハンが急死したことによりヨーロッパの侵略を取り止めました。
1274年と1281年に元が日本を侵略する「元寇」がありました。この時、元の皇帝はフビライハンで、チンギスハンの孫にあたります。日本への出兵に失敗したことや社会不安により元は滅亡しました。その後、モンゴル帝国は1300年から緩やかに解体に向かいました。
織田信長とは?
織田信長は1534年に尾張国で生まれました。信長が生まれた当時、尾張国の守護代織田氏は分裂していましたが、信長が19歳で家督を継ぐと統一しました。統一後の1560年に今川義元の大軍を桶狭間の戦いで破ります。
桶狭間の戦いの後、美濃国の斉藤龍興(斎藤道三の孫)を滅ぼし、稲葉山城を中国の故事成語にならって岐阜と改めました。1570年の姉川の戦い、比叡山延暦寺の焼き討ち、1573年の室町幕府の滅亡、一向一揆の弾圧、長篠合戦を経て全国統一の事業を積極的に進めます。
1576年より安土城に入りました。安土城で楽市楽座やキリスト教の布教を認め、畿内の平定を平定し、全国統一は直前となりましたが、1582年に本能寺の変で自害しました。
織田信長はチンギスハンになれたのか?
織田信長が生きていたらチンギスハンのように世界の覇者になれたのでしょうか。結論を言えばチンギスハンのように世界の覇者になれた可能性があります。
信長は今川義元との戦いで鉄砲を使った集団戦法を見た経験があります。
信長は家督を継いだとき、今川義元の寄親寄子制に倣って兵を集めようとしましたが、尾張は小国であるため兵を集めにくい状態でした。兵を集めるために二男・三男以下の男子と交流するようになり直属の家臣にしました。全国を統一し、世界の覇者になろうとすると、信長はフビライハンの代でモンゴル帝国が緩やかに解体に向かう過程を学ぶと考えられます。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回はチンギスハンと織田信長について取り上げたうえで、織田信長はチンギスハンのように世界の覇者になる可能性について取り上げました。本能寺の変がなく、織田信長が生きていたらという仮定で取り上げましたが、信長は今川義元の戦いや政治から学習して応用ができるということで、チンギスハンのように世界の覇者になれるという結論に達しました。
世界の覇者だけでなく世界で最初の産業革命も成し遂げた可能性や植民地政策の第一線にいた可能性もあります。今後はチンギスハンと織田信長の戦い方にも注目したいと思います。
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