今回は水野勝成の墓について取り上げます。
この記事の前半では、水野勝成について取り上げます。後半では水野勝成の墓について取り上げます。
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水野勝成とはどんな人?
水野勝成は1564年に生まれました。遠江国の高天神城攻めが勝成の初陣となりました。高天神城はいったん武田勝頼の軍に奪われましたが、奪還する戦いで水野勝成は活躍しました。
本能寺の変以降、水野勝成は豊臣方についた父と袂を分かつようになり、徳川家康の家臣となりました。小牧・長久手の戦いでは、水野勝成は豊臣秀吉の味方についた父と戦うことになり、勝成は父の家臣を斬殺しました。この斬殺がきっかけで勝成は勘当され、フリーランスの戦国武将となりました。
佐々正成や黒田官兵衛など著名な戦国武将に仕えますが、仕えた武将を転々と変える生活が続きました。
1598年に水野勝成は徳川家康の取りなしによって勘当が解かれ、家臣となりました。武将を転々と変える生活はこれで終わりました。1600年に水野勝成の父が殺害されると、水野家を継ぐことになりました。1614年と1615年の大坂の陣では、真田幸村の退路を断ち、苦戦している徳川方の部隊を助けました。
大坂の陣の後、郡山6万石の大名になりました。1619年から10万石の大名として福山に入りました。1639年、水野勝成は息子に家督を譲り、隠居しました。1651年に死亡しました。享年88でした。
水野勝成の墓はどこにある?
水野勝成の墓について取り上げます。水野勝成は大坂の陣の後に福山藩に入りました。福山藩10万石の大名として、水野勝成は60歳を超えても戦いの第一線で活躍しました。島原天草一揆では勝成の息子・孫の三代が揃って参加し、原城を落とすことに成功しました。
水野勝成は福山の街づくりにも力を入れました。新田開発や治水事業に積極的に取り組み、現在の福山市の原形となりました。水野勝成の墓は福山市の賢忠寺にあります。
福山市の賢忠寺へのアクセス方法
賢忠寺は1651年に建立された寺で、勝成の墓地は北側にあります。勝成の墓石は高さ5.1mの巨大な五輪塔です。勝成だけでなく、かつて勝成を勘当した忠重、孫の勝貞ら代々の墓もあります。
交通アクセスは次の通りです。JR福山駅からガードの北側に沿って東へ約700mの場所にあります。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
水野勝成は初代福山藩10万石の大名となりました。この記事を通して、水野勝成が福山の町を築いたことが分かりました。ここでは水野勝成以降の福山藩について取り上げます。
福山藩は水野家が継ぎ、着実に福山の町は発展しました。しかし、水野家に跡継ぎがいなかったため断絶しました。水野家の家系が断絶したことによる改易のため、天領(幕府の直轄地)となったり、松平家が藩主となったりした時期がありました。
松平家の後、下野国宇都宮藩から阿部氏が福山藩に移り、福山藩藩主となりました。以降、大政奉還まで福山藩の藩主となりました。幕末では、福山藩主で老中だった阿部正弘が有名です。福山藩といえば水野勝成よりも幕末の阿部正弘を思い浮かべる人が多いかもしれません。
ペリー来航という緊急事態に対して、阿部正弘は日米和親条約を締結しました。また、これまでになかった緊急事態に対処するために、譜代だけでなく政治に参加できなかった外様大名や朝廷にも意見を求めるという画期的な改革を行いました。この改革を安政の改革といいます。
安政の改革について、アメリカが開国を求めて武力を行使したことから、外様大名や朝廷にも意見を求めて一致団結して、緊急事態に解決しようとしたことは評価できるかもしれません。しかし、幕政に参加できなかった外様大名や朝廷の発言力をかえって高めることになったので幕府の求心力が低下したという評価もあります。
今後、歴代の福山藩主の評価について注目したいと思います。
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