渤海国(698年~926年)とは朝鮮方面にあった王国です。日本とも交易した形跡が史料に残されています。
ところが、西暦926年に契丹(後の遼)の初代皇帝の耶律阿保機により滅亡させられました。その際に、様々な記録や遺物が失われたので、今日では渤海国は謎の王国とされています。
今回は謎の渤海国について解説致します。
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高句麗が滅びる
唐(618年~907年)の第3代皇帝高宗の総章元年(668年)に朝鮮に君臨していた大国の高句麗(前37年~668年)滅亡しました。高句麗は隋(581年~618年)の第2代皇帝煬帝が3回に渡り遠征を行いましたが全て失敗しました。
また、隋が滅んで唐に代わっても遠征軍は派遣されていますが、その時も失敗しています。中国にとっては常にやっかいな存在でした。しかし、何度も遠征軍を跳ね返すうちに国力が尽きてきたようです。
さらに、唐の龍朔3年(663年)に唐と新羅(前57年~935年)が連合して、日本と百済(前18年~660年)の残党政権の連合を打ち破った「白村江の戦い」で高句麗はますます追い詰められたのです。
結局、どうすることも出来ずに高句麗は白村江の戦から5年後に滅ぼされたのです。
流刑地の反乱
しかし、高句麗が滅んでも唐はやはり不安です。いつ、残党が王族の1人を担ぎ出して反乱を企てるか分かりません。そこで唐は高句麗の王族出身者を営州(現在の熱河省)に行かせました。
これで一安心です。ところが、実はこの営州という土地は高句麗の人だけではなく、様々な罪人がいました。要するに流刑地です。
住んでいる人々は唐に対して不満を持ちながら過ごしていました。やがて時は流れて、唐は則天武后により中断されて「周」という王朝になっていました。反乱はその周の時代に起きました。
周の万歳通天元年(696年)に契丹人の李尽忠が反乱を起こしました。それに呼応して乞々仲象も反乱に加わりました。
乞々仲象・・・・・・凄い名前ですね。
まさか、キラキラネームですか?
実は違うのです。どうやら名前に当てはまる漢字が分からないので、適当に書いたらしいです。漢字の発音をそのまま中国語で読んでも「チーチーチェンシィーアーン」です。
意味不明です。
振の建国
さて、周は反乱が起きて参ったので早速討伐軍を派遣しました。討伐軍により李尽忠や他の反乱軍は討たれましたが、乞々仲象の軍だけは無敵でした。
何回軍を派遣しても乞々仲象には勝てないので、周も放っておくことにしました。その後、反乱軍は建国を決めました。
国号は「振」と決めました。ただし、初代国王は乞々仲象ではありません。
乞々仲象はどうしたのでしょうか。彼は周の聖歴2年(699年)にはこの世を去っていました。王になったのは息子の大祚栄でした。頑張ったのに王になれなかったのは可哀そうな気もします。大祚栄が建国した振こそ、後の渤海国です。
周はその後も大祚栄に対して、軍事的圧力や経済封鎖等の対策を打って出ます。だが、どれも効果は出ませんでした。やがて、則天武后が死んだことにより周は1代で消滅して唐が再び復活しました。
唐の第6代皇帝玄宗の開元元年(713年)に唐は大祚栄の独立を正式に認めました。これにより、振は渤海国と名称を改めました。渤海国という名称は、唐と振の妥協の産物と言えるでしょう。
宋代史ライター 晃の独り言
以上が渤海国建国までの流れです。
渤海国に関しては他にも謎に包まれた内容があるのですが、それに関してはいずれお話します。
※参考文献
・渤海国の謎―知られざる東アジアの古代王国 (講談社現代新書)
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