「七歩の才」ということわざがあります。作詩が早く優れていることの意味です。このことわざの元ネタは曹操の息子の曹丕と曹植です。
今回は曹丕が感動した「煮豆の詩」に関して『三国志演義』を中心にご紹介します。
曹操の死と曹丕・曹植の不和
延康元年(220年)に曹操はこの世を去りました。
遺言により曹丕が後を継ぎました。ところが、曹操の葬式にある人物が訪れませんでした。
弟の曹植です。曹植はその昔、曹丕と後継ぎの座を巡って争った人物でした。色々ありましたが最終的に曹操は曹丕を後継者に選びました。
ところが、曹植とその派閥の部下は曹丕のことを恨んでいました。そのため、毎日酒を飲んでは憂さ晴らしをしていました。
曹植逮捕!
曹操の葬式に来なかった曹植を尋問するために曹丕は使者を派遣しました。だが、酒に酔った勢いで曹植は無礼な態度をとりました。怒った曹丕は曹植を逮捕しました。
父に対する不孝の罪という事で曹丕は、曹植を処刑することにしました。
ところが、ここで母の卞夫人がストップをかけました。
「お前たちは私が腹を痛めて生んだ子なのに、殺しあうなんて・・・・・・」
母親に言われると曹丕もギブアップです。
でも、だからといって曹植のやったことは許せません。仕方ないので何かやらせて出来たら罪を許すことにしました。
煮豆の詩
曹丕は曹植の得意な詩をお題に出すことにしました。なぜなら、曹丕も詩は得意だからです。彼も『典論』という文学論を執筆するほど、詩に精通しているのです。曹丕は曹植に言いました。
「お前は詩が得意と聞くが、その内容については他人の盗作ではないかと私は疑っている。私がお題を出すから、七歩の間に吟じよ」まず最初に近くにあった掛け軸をお題に出します。
曹植はスラスラと答えました。見事だったが曹丕は曹植がゆっくり歩いたように見えました。そこで、もう1つお題を出すことにしました。
「曹植、お前と私は兄弟だ。兄弟に関する内容を吟じよ」
曹植はスラスラと再び答えました。それが有名な「煮豆」の詩でした。以下、次の通りです。
豆を煮るに豆萁を燃やし、豆は釜中に在りて泣く。本(もと)是(こ)れ同じ根より生ぜしに、相煎(い)ること、何ぞ太(はなは)だ急なる。簡単に翻訳すると、豆は収穫すると豆萁は薪代わりとなり豆を煮るが、豆そのものは煮て食べられる。
豆萁も豆も同じ根から出来たものなのに何で煮たり、煮られたりするのだろうか要するに曹植は自分と曹丕の争いのことを言っているのです。曹丕は曹植の詩を聞くと涙を流しました。
こうして、曹植の罪は許されました。ただし、死刑を許されただけで曹操の葬式に来なかった親不孝の罪は許されずに、都から追放の処分にされました。
三国志ライター 晃の独り言
以上が『三国志演義』における有名な「七歩の才」の話でした。今回、正史『三国志』ではなく、『三国志演義』を使用したのには理由があります。
実は「七歩の才」は正史『三国志』には記載が無いのです。この話は、劉宋(420年~479年)時代の劉義慶という人が執筆した『世説新語』という書物に記載されているのです。ただし内容が短いし時期も曹操の死の直後なのかはっきりとしないので、記事にするには難しいことから『三国志演義』の方を採用したのです。
『世説新語』の内容は「史実」というよりも「小説」に近いです。だから、「七歩の才」の真偽は実際のところ分からないのが真相です。余談ですが「小説」という言葉の本当の意味は「くだらない・つまらない話」です。
だから、昔は小説を書くことが一族の恥とされていたのです。小説家にペンネームが存在していたのも、これが理由です。
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