曹昴は曹操の息子の1人です。確認がとれる限り曹操の最初の子供であり、曹丕の異腹兄です。本来なら魏(220年~265年)の皇帝は曹丕ではなく、彼が即位するはずでした。
しかし、曹昴は建安2年(197年)に南陽の張繍と戦った時に討ち死にしたので魏の成立を見ることが出来ませんでした。今回は正史『三国志』をもとに曹昴と彼が亡くなった「宛城の戦い」について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすいように翻訳しています。
「岳飛 子孫」
「岳飛 孫」
「岳飛 子供」
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曹操と子供として生まれる曹昴
曹昴の生年は不明です。おそらく後漢(25年~220年)第12代皇帝霊帝の光和年間(178年~183年)には誕生していたと推測しています。母は曹操の側室の劉夫人、妹は後に夏侯楙の妻となる清河長公主でした。
曹昴の性格や才能の具体的記述については正史『三国志』の著者である陳寿は何も記していません。陳寿がなぜ曹昴に関して記録を残さなかったのかは分かりませんが、裴松之が注に持ってきた『魏略』という書物によると曹丕のコメントが残されています。
「兄の曹昴は生きていても皇帝になるには限界があった・・・・・・」
どうやら弟の曹丕から見れば曹昴は政治家としての才能は、あまり無かったようです。身内からのコメントなので余計リアルですね・・・・・・
曹操を助けて命を落とす曹昴
それでは曹昴はダメな人だったのでしょうか?実はそうでもありません。
建安2年(197年)に曹操は南陽の宛城を拠点にしている張繍を攻めます。
張繍は曹操が攻めて来たと知ると慌てて降伏。兵士に損害が出ることもなく領土を得れたので、曹操はすっかり気を許しました。
だが、張繍の罠でした。張繍は曹操のスキを突いて奇襲を仕掛けます。だまされたと気付いた曹操ですが時は遅すぎました。急いで逃走しますが、愛馬の絶影が矢を受けてしまい死亡。曹操は徒歩で逃走を余儀なくされます。するとそこへ駆けつけたのが、息子の曹昴でした。
曹昴は自分の馬を曹操に差し出して逃げることを伝えます。曹操はお礼を言う暇も無く、馬に飛び乗ると急いで戦線から離脱。残った曹昴は向かって来た張繍軍と戦いました。だが、奮戦もむなしく敵の白刃の前にその命は尽き果てました。享年は不明。おそらく15~20歳と推測されます。
復讐の曹丕
曹昴の死後、曹操は散々でした。曹操の正室の丁夫人は、曹昴の死を知ると激怒して曹操と離縁を申し出ます。曹操は再三に渡り説得しますが、彼女の信念は変わりません。曹操はやむを得ずに離婚しました。
一方、張繍は建安4年(199年)には曹操に自ら降伏。翌年の官渡の戦いでも活躍するなど、曹操軍の主力となります。曹操は才能さえあれば、かつての怨恨は全て忘れます。ところが、それを忘れていない人物がいました。
曹丕です。曹丕は張繍が兄の曹昴を殺したことを許しません。張繍が曹丕に頼みごとをしに現れた時は、「兄の曹昴を殺した奴が、どうして平気な顔をして会うことが出来る?」と言い返しています。曹丕の存在に不安を感じた張繍は、建安12年(207年)に自殺しました。
前述したように曹丕は曹昴に対して辛口評価をしています。ただし、それは「政治家」という側面から見てです。兄弟という側面で見直したら曹丕にとって曹昴は頼れる兄だったのかもしれません。
三国志ライター 晃の独り言
以上が曹昴に関しての解説でした。曹操は死ぬ間際、「もしあの世で曹昴が『父さん、母さんはどこにいるのですか?』と尋ねたら、私はなんて答えればよいのだろうか?」と人に語りました。
曹操は死ぬまで別れた丁夫人や自分のせいで戦死させてしまった曹昴のことを気にかけていたのです。
彼は1人の夫であり、父でした。なんだか悲しい話ですね・・・・・・
※参考文献
・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物往来文庫 2010年)
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