季節は12月に入り、そろそろ本格的に冬の雰囲気が出てきましたね。
前回は「忘年会の語源は?禰衡と孔融の忘年の交わりを紹介」として、忘年会の語源について紹介しましたが、今回は日本における忘年会の起源と戦国時代の忘年会を紹介しようと思います。私達の先人は、忘年会をどのように捉えていたのでしょうか?
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この記事の目次
鎌倉時代の「年忘れ」は少しも騒がなかった?
日本の忘年会の起源は、鎌倉時代に公家の間で流行していた「年忘れ」という行事だったようです。しかし、この公家の年忘れは夜通し和歌を書いて楽しむというかなり知的な行事でお酒の記述もありません。つまり私達が考えるようなどんちゃん騒ぎは、この時代には無かった事になります。
今の感覚で考えると、年末に酒も飲まずに和歌を詠んで何が楽しいの?と考えてしまいますが、当時の公家からすれば、夜通し酒飲んで二日酔いするのは楽しいの?と言い返されるかも知れませんね。
忘年会のどんちゃん騒ぎは室町時代から
では、私達がイメージするような、忘年会のどんちゃん騒ぎはいつから始まるのでしょう?
としわすれと称してお酒を飲んで騒ぐという記録は室町時代の皇族、伏見宮貞成親王という人物が書いた看聞日記に永享二年(1430年)12月21日の出来事に登場します。
先有一献 其後連歌初 会衆如例 夜百韻了一献 及酒盛有乱舞 其興不少歳忘也
意訳:先に酒肴を一献受け、その後に連歌を百首収めてから、いつものようにまた酒肴を頂き、その後酒盛りになって踊り狂い、その楽しさで歳を忘れるようだ。ごらんのように連歌の行事を済ませてから、酒と肴のサービスを受けた後、酒盛りをして踊り狂い年を忘れる程に楽しいと書いてある事から看聞日記が書かれた1430年には、現在の忘年会の原型があったのだと考える事が出来ます。
また、伏見宮貞成親王は皇族でありながら庶民の暮らしに強い関心を抱き、様々な出来事を記録している事から、こちらに登場する連歌も上流階級のそれではなく、民間の連歌の様子を記した出来事かも知れません。そうだとすると、上流階級ばかりではなく、年末にとしわすれと称して酒盛りをして踊り狂い一年間の憂さを晴らす習慣がすでに庶民にもあったのかとも思えます。
忘年会が本格的に庶民の間で広まったのが確認できるのは江戸時代に入ってからのようです。しかし、年末に忘年会をするのは庶民の習慣であり、支配者である武士階級は差別化を図る為に新年会をしていたようです。
髑髏杯でハッピー!織田信長のびっくり新年会
戦国時代の新年会で最も強烈なのは、1574年の元旦に岐阜で行われた宴会でしょう。ここで織田信長は、浅井長政・浅井久政の父子、そして朝倉義景の頭蓋骨に漆を塗った髑髏杯をサプライズでお披露目したと信長公記に出ています。
この時、京都及び近隣諸国の大名や武将がやってきて、信長は三献の儀でもてなしたとありますから、この人、髑髏を新年早々に皆に見せびらかしたのかと思うと、いくらなんでもちょっと頭オカシイのだろうか?とkawausoは考え込んでしまいましたが、実は、サプライズの髑髏は公式の行事が済んでから馬廻り衆だけにこっそり披露したのだとか。
信長の馬廻り衆には、佐々成政、前田利家、川尻秀隆、塙直政のような生え抜きの戦国武将がいました。信長は浅井・朝倉攻めで苦労をした部下に、取って置きだぞとか言いながら、漆塗りの髑髏を見せたのでしょう。
「さすが信長様、俺達が出来ない事を平然とやってのける、そこに痺れる!憧れるゥ!」
と、馬廻り衆が言ったかどうかは不明です。
こんなのを見せられるとギョッとしそうですが、さすがに生首に慣れている戦国武将、サプライズ髑髏に大盛り上がりで信長も終始ご満悦だったとか。
パワハラ男信長、光秀に飲酒強要?
また、浅井三代記という江戸初期の書物には信長は三名の髑髏に漆を塗るだけでなく、酒器にしたと記録されています。いわゆる髑髏杯です。戦国ドラマでは、信長が髑髏杯に酒を注いで、下戸の明智光秀に飲酒を強要し、光秀がラストクリスマスを歌う、ナディア・ギフォードばりにゲベロベーとなり「このキンカン頭、わしの酒が飲めんのか!」と信長が折檻するシーンが出てきますが、こちらが出典のようです。
しかし、この浅井三代記は信憑性が薄い記事が多く、信長が髑髏杯を造ったというのも、にわかに信じ込んではいけないようです。
それに、ルイス・フロイスの記録では、信長は酒を嗜まないともあり、信長本人は甘党で下戸であったというような話もあります。まあ、当人が下戸でも部下には平気で酒を飲ませる性質が悪い上司はどこにでもいますから、信長が下戸だからって飲酒を巡るパワハラまでなかったとは言えませんけどね。
イッキ飲みの悪習は昔から?宣教師ロドリゲスの分析
飲酒の習慣は戦国時代には、日本文化に深く根を下ろしていて、特に戦国武将は合戦がない時には、毎日のように何らかの名目で酒を飲んでいました。軍議でさえ飲酒しながらやっていて、時には朝から飲んで、軍議をし、来客があれば酒で持て成し、時には夜通し朝まで飲んでいたそうですから、下戸の侍にはかなり辛い時代であったようです。
しかし、一応下戸に関しては、救済策が用意されていました。それは、アイコンタクトで自分が下戸である事を酌をする人に伝えられれば、お酒をいれたフリをして見逃してくれたそうです。ただ、アイコンタクトが伝わらず、酌人が酒を注いでしまえば、それはもう我慢して飲み干すのが武士の度量と考えられていたとか・・
そうでなくても、平安時代から室町時代に成立した正式な宴会形式である式三献では小杯、中杯、大杯をそれぞれ三杯ずつ酒を注いで飲まないといけませんでした。勢い宴は酒合戦の様相になり、誰かが酔いつぶれるまで終わらないという悪弊を産んだようです。さらに酒の席では上役の前でゲベロベーしても苦しからずという寛容さもあり事態が悪化するのに拍車を掛けたようです。
また、何かにつけて酒をコミュニケーションツールにする日本の宴会風習を、イエズス会の司祭であるジョアン・ロドリゲスは、日本の宴会では酒を飲んで腹を一杯にし、泥酔させる事を目的にしていると記録しています。飲めない人に無理やり飲ませたり、イッキ飲みをさせたりは現代日本でも残る悪弊ですが、そのルーツは室町時代にはすでにあるのかも知れません。
先ほど引用した信長公記に出てくる三献の儀が式三献であり、下戸であったと伝わる光秀は、信長のアルハラがなくても、新年会では辛い思いをしてたりして・・
kawausoの独り言
現在の日本の忘年会に繋がるのは、室町時代、看聞日記に出てきた連歌の後の酒宴が最初であるようです。その後、庶民は亡年会、武士階級は新年会になり江戸時代を経て明治時代になると、仕事納めの後に酒宴をしてどんちゃん騒ぎする形式が出来上がったようです。
しかし、大量に酒を飲んで泥酔する事を目的とし、飲めない人まで飲酒を強要する習慣はかなり昔から存在してもいるようですね。
忘年会の雰囲気が好きな人も、お酒を飲むのが好きな人も、どちらも楽しい忘年会になるようにお互いに心掛けたいものです。
参考文献:信長公記
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