戦国時代には、血で血を洗う実力主義の時代というイメージがあります。低い身分でも実力があれば成り上がり下克上を達成して天下に号令できる。
織田信長を見ているとそんなイメージになってしまいます。しかし、実際の戦国時代は、中盤までは実力万歳ではなく、下克上率も思った程に高くなかったようです。
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この記事の目次
応仁の乱から天文年間までは守護家の内紛が続く
戦国時代の定義は色々ありますが、応仁の乱後から豊臣秀吉の全国統一までと考えると、およそ百年ほどの時間と定義できます。この時代はそれまでの家格や家柄が通用しなくなり、実力本位の時代だと考えられがちです。しかし、応仁の乱後から天文年間までは、各地の動乱は守護大名同士の勢力争いで、下部の守護代や国衆が守護を追い出して戦国大名と化していくのは、応仁の乱から六十年が経過した天文年間の事です。
この頃になり、ようやく美濃の斎藤道三、畿内の三好長慶、安芸の毛利元就が台頭し、上位にいた守護を追い出して、実権を握るようになったのです。以下では、そんな下克上チャンピオン達の主家追放の様子を見てみましょう。
美濃のマムシは慎重、下克上率は70%
東の北条早雲(伊勢宗瑞)と並んで戦国時代を代表する下克上の人物とされる斎藤道三ですが、彼が主君である土岐頼芸を追放して美濃の国守になるのは、天文十九年(1550年)でした。道三が父である長井新左衛門尉の跡を継いだのは、天文二年(1533年)ですから、下克上に十七年を要しています。
道三は用心深く、頼芸を追放する前に、頼芸と結びつく可能性が高い尾張の戦国大名、織田信秀と和睦し娘の帰蝶を信秀の嫡男である織田信長に嫁がせ、体制を盤石にしてからの追放劇でした。しかも、こうまでして得た美濃の国主の地位も、六年後に不仲になった息子の斎藤義龍に奪われ、道三は長良川の戦いで義龍に敗北して討ち死にするのです。
父殺しをして美濃の太守になった義龍ですが、では、独立独歩で斎藤姓を押し通したかと言うとそうではなく、幕府に要請して四職家の一つ一色氏への改姓を認めてもらっています。そればかりではなく、一色氏になった義龍は重臣の稲葉一鉄などにも、新治姓のような一色氏の宿老の姓を与えて、権力の一体化を図っていますし、息子の龍興にも一色姓を与え、一色義糺を名乗らせて権威付けし、室町将軍の秩序の下で権力維持を図っています。土岐頼芸を追放して下克上を成し遂げた道三ですが、息子の代では、やはり室町幕府の秩序に回帰したと言えるので、下克上率は終りの悪さと義龍の分を引いて70%です。
足利義輝追放!三好長慶の下克上率100%
斎藤道三が美濃国守になった頃に、細川管領家を乗っ取ったのが三好長慶です。三好氏は、阿波守護代で、分裂した四国細川家の細川澄元・晴元に仕え、特に父の三好元長は細川高国を討つ功績を挙げますが、その有能さが細川晴元に疎まれ謀殺されたのです。
当時、十一歳の長慶は、父を殺された無念をおくびにも出さずに従順に従うふりをしつつ、長弟の三好実休、次弟の安宅冬康、三弟の十河一存等に領国と水軍をまとめさせつつ、松永久秀のような大和の国衆を登用して、チャンスを待ち、紀伊の根来寺や大和の筒井順昭を従える河内の遊佐長教の養女を正室に迎えて同盟を結び、天文十八年に江口の戦いで細川晴元を破り上洛して京都を支配しました。
この後、管領細川家は権威を取り戻す事なく没落していきます。一時は守護の中の守護として山名氏と覇権を争った細川家を打倒したのですから現段階で下克上率100%です。細川晴元には足利義輝も与しており、彼らは近江の六角定頼を頼りました。定頼は晴元の義父だった為です。
長慶は一時、足利義輝と和睦し幕府の政治を支える道を選びますが強い野心を持ち、幕府権力の復活を望む義輝と長慶では共同歩調が取れるわけもなく、義輝の度々の破約に怒った長慶は天文二十二年(1553年)に義輝を京都から追放。以後、長慶は将軍家ゆかりの傀儡も立てず、京都から親王も招かず、全くの独力で京都静謐を実現します。短期間とはいえ、三好長慶は天下人になりました。
これは当時異例の事であり、織田信長にも強烈なインスピレーションを与えます。もう、文句なしの下克上率150%でしょう。ところが、長慶の京都静謐は足利将軍が京都から消えた事で起きる混乱を恐れる上杉謙信や一色義龍、織田信長の干渉によって、長慶が折れて義輝と和睦して潰えてしまいます。ここは残念、なので50%を割り引いて三好長慶の最終下克上率は100%にします。
人フンで大内氏を滅ぼす毛利元就下克上率130%
非常にリスクが高い下克上を、もっとも上手くやったのは中国地方の覇者である毛利元就でしょう。元々、安芸吉田荘の国人領主だった元就は、強大な守護大名大内氏と守護代の尼子氏に挟まれて右往左往する弱小豪族でした。しかし、天文九年、(1540年)出雲の尼子晴久が元就の吉田郡山城を攻めた時に、大内義隆が派遣した援軍、陶隆房と共に尼子氏を撃退します。ところが、天文十一年、今度は武断派の陶隆房が主導して、大内氏は尼子領内に進攻し月山富田城を攻めて、大敗、義隆の嫡子であった大内晴持が戦死してしまいます。
嫡男の戦死で義隆は落胆し、同時に戦争を主導するようになった陶隆房等武断派を疎んで文治派を重用するようになります。やがて陶隆房は義隆を倒し、大内義長を傀儡の主君にする事で生き残ろうとしますが、元就はこれを支持、天文二十年(1551年)陶隆房は、謀反して、大内義隆を自刃に追いやります。この機会を受けて、元就は佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握。隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えています。こうして毛利元就は自らは手を下さず、主君殺しという汚名を隆房にやらせたわけです。知略で主君を除いた元就の下克上率は130%でしょう。
大義名分ゲットも結局守護を追放 織田信長下克上率60%
あまり目立ちませんが、織田信長も尾張統一の途中で織田伊勢守家と織田大和守家という二つの守護代家を倒し下克上しています。元々信長の織田家は守護代織田大和守家の奉行で清須三奉行、織田弾正忠家と呼ばれていた国人領主でした。
信長が最初に倒したのが織田大和守家で天文二十三年(1554年)です。この時は幸運な事に、織田大和守家の織田信友が守護の斯波義統を殺害。しかし、異変を察知した義統の息子の義銀が信長を頼って逃げてきました。これで織田信友に主君殺しの汚名を着せる事に成功した信長は討伐の大義名分を得て織田大和守家を滅ぼしました。永禄元年(1558年)七月、信長は今度は犬山城の織田信清と組んで、尾張上四郡を支配する織田伊勢守家を滅ぼします。
桶狭間の戦いを挟んで、三河の徳川家康と同盟を結んだ信長ですが、その中でお飾りの守護にされた斯波義銀が、同じくお飾りになった三河の吉良氏、駿河の今川氏と密かに同盟を結んで信長に叛こうとしますが、あえなく失敗、義銀は尾張を追放され、守護斯波氏は滅亡しました。
しかし、信長は人情のある人だったようで、津田義近と改名した義銀と和解。義近は、信長の息子の織田信包の長男に娘を嫁がせるなどして血縁を深めています。過酷で果断なイメージがある信長ですが、守護斯波氏の処置には躊躇いを感じますし、なんだかグダグダなので、下克上率60%です。
戦国時代ライターkawausoの独り言
このように戦国時代に守護が追放されるのは、戦国時代が始まってから六十年が経過した天文年間に入ってからが顕著です。ただ、あんまり殺すケースはなく、どこかに追放したり和解して呼び戻したり、戦国大名なんて言っている割に、室町以来の権威には案外弱い所も窺えますね。
参考文献:NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 麒麟がくる 明智光秀とその時代
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