皆さんは、有史以来人類が戦争を繰り返してまで、欲しがった鉱物と聞いて何を連想しますか?黄金、銀、プラチナ、或いは武器や農具を造るのに欠かせない鉄でしょうか?残念、いずれも外れです。人類が血眼になって探し求めた鉱物とは塩なのです。
この人類が唯一食する事が出来る鉱物、塩化ナトリウムは、欠乏すれば心臓や筋肉を動かす事が出来なくなり死に至ってしまいます。今回は、この塩を巡る人類の歩みを漢王朝の塩を巡る政策から紐解いてみます。
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塩を巡る戦争を指揮した黄帝
中国の伝説において、最初に統治者として君臨した人物は黄帝です。彼は、書道、武器、交通路を発明し初めて国家を築いた帝王でした。どうして黄帝の話をしたかと言うと、黄帝こそが塩を巡る戦争を戦った最初の人物であると言われているからです。
先史時代の中国の製塩施設として、判明している範囲で初期のものが、、中国山西省運城市塩湖区にある塩湖「解池」です。乾燥した黄土と砂漠の山から出来ているこの一帯は、遥かな昔から塩を巡る領有権争いが起きた場所でした。そして、運城市は伝説上の夏王朝が都を置いた土地でもあると考えられています。
紀元前六〇〇〇年頃には、すでに、真夏に干上がった湖の水面に浮かんだ塩の結晶を人々が集めていたというのが中国の歴史家の統一した見解だそうです。因みにこの地は三国志の英雄関羽の出身地であり、舜や禹と言った伝説の名王が都を置いた場所でした。それらは決して偶然ではありません、実は封建時代、この解池から上る塩の収入が国家の塩税の1/8を占めていたのです。解池を握る事が王朝の死活問題であり、であればこそ伝説の黄帝も塩を巡る戦争に挑んだのでしょう。古代中国は支配者が塩を握る事で建国されたのです。
塩は国家なり!塩に税金をかけた管仲
中国で、塩に税金をかけはじめたのは、紀元前十二世紀で殷の時代にまで遡ります。そもそも、塩という漢字は旧漢字では鹽であり、これは海水から塩を沸かす鍋である「皿」それに塩を含んだ土地を意味する「鹵」左の役人である「臣」によって構成されています。塩という漢字の成り立ちそのものが、税金を意味しているのです。
殷は塩に税金をかける事で多額の税収を得ますが、当時はまだ、塩の値段はさほど高価ではありませんでした。しかし独占する事で人民の生命を制する事が出来る塩は、春秋戦国時代に台頭してきた法家によって別の意味を与えられます。そんな法家の人々が自分達の意見を仮託して書いたのが、斉の宰相で経済に通じていた管仲の書物とされる管子でした。管仲は紀元前七世紀の人ですが、管子は紀元前300年頃の成立とされています。
さて、この中で管仲は、塩の値段を買い上げた値段より高く設定する事で、国家は多額の収益を得る事が出来ると説き、塩が無ければ人間は生きられないから、人民はどんなに高くても塩を買わざるを得ないとしました。その上で「塩はわが国の基本的な経済を支える唯一の大きな力である」と結論づけています。管仲の名前を借り法家の人々は塩は国家なりと喝破したのです。
塩を専売にした漢帝国
紀元前221年、五百年に及ぶ戦乱の中国を秦が統一します。始皇帝と名乗った秦王政は度量衡を統一、全土にくまなく道路を通し貨幣を一つにし、漢字を統一するなど広大な中国を一つにまとめる政策を次々と打ちますが、万里の長城、驪山陵の建設、さらに匈奴に対する軍事侵攻などで人民を酷使し過ぎたために、始皇帝の死後、紀元前209年には陳勝・呉広の乱が起きて、まもなく秦は十五年で崩壊します。
どうやら秦は広大な帝国を統治する財源とする為に、塩と鉄を専売にし高い税金をかけていたようです。そして秦は、これらの仕事を商人に任せていたので、私腹を肥やす商人が続出。人民の怨嗟は秦だけでなく塩鉄の専売や商人にも向けられます。
秦の滅亡後、楚の項羽と争い天下を獲った漢の高祖劉邦は、人民の苦痛に理解を示し、塩と鉄の専売を廃止して値段を下げ、商人が政治と結託する事を防ぐために、商人が役人になる事を禁止しました。漢は民力の休養を標榜して積極的な公共事業も起こさず、匈奴には貢物を贈る事で国境の緊張を緩和します。
しかし、紀元前141年、7代皇帝武帝が即位すると風向きが変わります。15歳で即位したハイティーン皇帝は、後見人である太皇太后の竇氏が亡くなると、積極策に転じ、匈奴に宣戦を布告します。国力が充実した漢帝国の前に匈奴は押され、武帝はシルクロードに版図を拡大しますが、高祖以来、六代の皇帝が蓄積した国庫資金は外征によりカラになりました。財源不足に困った武帝が重用したのが、商人あがりの桑弘羊や孔僅でした。
彼らは、塩、鉄、酒の専売を提案し、平準法と均輸法を駆使して、カラになった漢の国庫を瞬く間に満たしました。難しい専門用語ですが、どちらも物資の値段が安い時に大量に買い上げて、値段が高騰した時に高く売るという事です。ただ、国家が儲かるという事は、民間にあったお金が国に吸い上げられた事を意味します。やっている事は基本的に、塩は国家なりと喝破した春秋戦国時代の法家と同じでした。
高い塩と鉄を買わされた人民は生活苦に苦しむようになり、農地を捨てて逃亡する農民が続出します。この事態に武帝の死後の紀元前87年、儒教官僚が、昭帝に塩、鉄、酒の専売廃止を訴えて、桑弘羊等経済官僚と論争した記録が「塩鉄論」です。論争自体は、儒教官僚たちがリードしましたが、彼らは批判は上手でも、では国家の財源をどこに求めるか?という代替案がありませんでした。その為、酒の専売だけは廃止されたものの、塩と鉄の専売は継続されました。
後漢で廃止された塩の専売は六百年後に復活
塩と鉄の専売は、紀元前44年元帝の頃に一度廃止されます。ところが、その3年後に起きた三度にわたるトルキスタンのソグディアナへの遠征で、漢は財政がひっ迫、結局は塩鉄の専売制を再開します。塩と鉄の専売は、後漢の時代の初期に廃止。以来、後唐の時代までの六百年、塩の専売は廃止されたままでしたが、唐は財源として塩の専売を再開、これにより唐王朝の税収の半分が塩という大きな財源になります。
しかし、重い塩税は庶民の不満を招き、庶民は高すぎる政府の塩ではなく塩の密売人である塩侠から違法な塩を買うようになります。もちろん、財源を奪われた唐は積極的に塩侠を討伐、その軍事費を賄う為に、また塩税を重くするという悪循環に陥ります。晩唐の西暦875年には、人民の支持を得た塩の密売人である王仙芝と黄巣が、その秘密結社の組織力を生かして黄巣の乱を起こし一時は長安を陥落させました。反乱は884年には鎮圧されますが、以後、唐は滅亡への坂を転がり落ちていきました。塩で持っていた唐は塩の扱いを誤り滅亡したのです。
kawausoの独り言
中国王朝は、舜や禹のような伝説の人物の時代から、中国山西省運城市の塩湖に領地があり、そこから取れる塩に税金をかけ国家財政を維持していました。しかし、塩はどうしても人間に必要なものであるが故に、国家は、財政が苦しくなると塩に高い税をかけるようになり、庶民は苦しめられ、唐王朝に至っては、塩に財源を依存した為に、塩侠の反乱、黄巣の乱を招いて没落し滅亡してしまったのです。
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