戦国時代は「下克上の時代」などと言われますが、松永久秀こそ、この時代を代表する人物としてふさわしいのではないでしょうか。出自のわからないところから突然現れ、京都奈良の政界でどんどん知名度を上げ、織田信長に協力しておきながら、その信長すらをも何度も裏切り、手こずらせた人物です。
この松永久秀、織田信長を中心とした小説やドラマでは「やられ役」として扱われがちです。しかし信長が登場する前の時代では、彼こそが「天下人」というあだ名で呼ばれていたことをご存知でしょうか?
しかも松永久秀は、最期は信長に追いつめられて自害してしまうものの、「隠し持っていた対信長の秘密兵器」をまだいくつか温存していたようなのです!もう少し長く生きていたら、もっと恐ろしい「信長のライバル」になれた人物なのではないでしょうか!
さて、その秘密兵器とは!?
この記事の目次
松永久秀こそが「下克上」の代表にふさわしい!何もかも異例づくしの生涯
まずは信長に出会う前の彼の経歴ですが、この時代の数々のオオモノたちの中にあっても、とにかく異例づくしの人物であることがわかります。たとえば、
・長尾景虎は上杉姓を名乗ったり、北条早雲も北条姓にこだわったり、斎藤道三も美濃の名門「斎藤家」の姓をもらったりと、「下克上」を成し遂げたとされる戦国大名ですら、自分の出自を由緒ある家名に結びつけたがる傾向が強かった。出自の怪しい階級から現れたのに、名家の家名踏襲という流行にまったく興味を持たなかった松永久秀は異色!
・三好家の家臣でありながら、朝廷から官位をもらい、またいっぽうで足利義輝からは室町幕府の位も与えられていた。朝廷と室町幕府と戦国大名(三好家)のミツマタに同時に仕えていたという器用さは、あまりに異色!
・彼が建造した多聞山城は、ヨーロッパ風の尖塔などを持つ斬新なデザインであり、ほうぼうからわざわざ見物客が訪れるほどの評判になった。城を実戦の為ではなく、権威を示すデザイン重視で建造したセンスは、織田信長をも先取りしており、異色!
・足利義輝の名前を使って、地方の領土問題に介入し、たとえば大友家と毛利家を戦わせるなど、全国の戦国大名を手玉に取っていた。自分と直接利害関係がない中国地方や九州地方の情勢にまで視野に入れて、ライバルが登場しないよう潰し合いをさせていたというスケールのデカさは、信長や秀吉を先取りしており、異色!
松永久秀は当時の文書では「天下人」とあだ名されていた!
そんな松永久秀ですが、当時の武将たちの手紙では、しばしば「天下人」と呼ばれていたそうです。
「今は松永弾正が天下人だから、彼に相談するのがよかろう」というような感じです。
どちらかといえばイヤミや妬みを含んだ言い方かもしれませんが、前述した通り、将軍家や朝廷の権威を借りて地方の大名の動向にも口を出してくる松永久秀は、よほどの「時の人」として恐れられていたようです。
考えてみれば、織田信長や豊臣秀吉が「全国統一」というスケールの大きな目標を掲げる前の時代の常識では、「京都で将軍や天皇を意のままに操る立場になること」こそが、「天下をとった」と言ってもいい最高の出世と考えられていたはず。松永久秀は、信長や秀吉の登場前の常識では、じゅうぶんに「天下をとった男」と見られていたのかもしれません。
松永久秀の手元にはまだまだ「秘密兵器」が残されていた!
皮肉なことに、その松永久秀自身が、時代の革命児である織田信長を京都に迎え入れる役割を担うことになります。久秀にとっては信長も、いずれ使い捨てのきく、コマのひとつにしか見えていなかったのかもしれません。
ところがこの信長が、松永久秀以上のスケールの大野心家であったため、さしもの久秀もしだいに形勢が悪くなりました。
結果として久秀は信貴山城に追いつめられて自害します。
「それでも信長を何度も裏切って手こずらせたのだから、たいしたものだ」という評価もありますが、実はあれでいて、松永久秀はその才能をすべて出し尽くしていたわけではないかもしれません。
というのも、松永久秀の生前の行動を見ると、以下のような「陰謀の種」のカード、いわば「対信長の秘密兵器」を、まだまだ手元に温存していたらしいのです!
・いわゆるマムシの道三は、美濃国から名門の土岐一味を追い出して下克上をしたことで有名。だが、その道三に追い出された土岐一族を温かく迎え入れ、家臣団に加えて大事に育てていたのは、松永久秀(信長の拠点は美濃ですから、いつかそこで扇動作戦を起こすために温存していた?)
・かの柳生一族に早くから目をつけ、柳生宗厳をしばしば城に招いて親交を深めていたのも松永久秀(人材発掘に余念がなかった?)
・十五代将軍の足利義昭をとても丁重に保護して恩を売っていたのは松永久秀(十三代将軍義輝の暗殺事件に、松永久秀も黒幕としてかかわっていたはずなので、実にしらじらしい態度ではありますが)
・なにを思いついたのか、『太平記』の英雄、楠木正成の子孫を名乗る人物を「発見」し、楠木姓を名乗らせた上で家臣団に加えて育てていた(南朝びいきの多い奈良や和歌山の人気を地盤として確実にするため?)
まとめ:もう少し長生きしていれば、さらに手ごわい信長のライバルになっていた?
こうしてみると松永久秀というのは、「節操のない裏切り者」どころか、将来使い道のありそうな人材に手厚く恩を売り、周囲を固めておくリーダーの器量も存分にあったようです。
残念ながら、織田信長というモンスターに出会ってしまったために、せっかくのこれらのカードをすべて出し切れないままに彼は滅びました。もう少し長生きしていたら、さらにあと二回か三回、信長をピンチに追い込む大陰謀を放っていたかもしれません。
戦国時代ライターYASHIROの独り言
あれだけ華々しく暴れまわっておいて、「まだ全力を出し切っていない」感を我々に与えるとは、どれだけ懐の深い陰謀家だったのかと、ゾッとします!
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