NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で、明智十兵衛と本能寺前で斬り合いを演じたサムライが細川藤孝です。その後、細川晴元の刺客から十兵衛と共に三好長慶を救った縁で無二の親友になる細川藤孝ですが、運命の本能寺では明智光秀に呼応せず見捨てる形になります。そんな藤孝の人生とはどんなものだったのでしょうか
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幕府申次衆三淵晴員の次男として生まれる
細川藤孝は、天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として京都東山に誕生します。7歳の時に和泉半国守護細川元常の養子となり、天文15年、12歳で13代将軍、足利義藤(義輝)の偏諱を受けて藤孝と名乗ります。しかし、永禄8年(1565年)主君義輝が三好三人衆に討たれる永禄の政変が発生します。三好三人衆は義輝ばかりでなく仏門に入っていた義輝の弟、覚慶も捕らえて興福寺に幽閉しました。
そこで、将軍家の再興を志す義輝の側近、一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、及び大覚寺門跡・義俊が力を合わせて覚慶を救出して奈良から木津川をさかのぼり伊賀へ脱出します。もちろんこの中には、19歳になる細川藤孝も加わっていました。
その後、一行は近江国守護六角義賢の許可を得て甲賀郡の和田城に拠点を定め、覚慶は足利家の当主になる事を宣言します。ところが、ここからの3年間、藤孝は兄の藤英と共に義昭を将軍につける為に大変な苦労をする事になります。
矢島御所を開き幕政を開始
覚慶は、和田惟政と仁木義政の斡旋で六角氏の許可を得て甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村に進出して在所にします。この時から上杉輝虎に室町幕府再興を依頼したり、輝虎と武田信玄、北条氏政に和睦を命じるなど幕府の業務を開始していました。
永禄9年2月17日、三好三人衆が立てて来た、足利義栄に対抗し正統な血筋による将軍家を再興すべく覚慶は還俗して足利義秋と名乗ります。4月21日には、従五位下左馬頭に叙任・任官、将軍宣下を受ける準備に入りました。
当初の足利義秋の上洛計画は、六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らの大名を和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものでした。これは、もちろん細川藤孝の目指す所でもあったのでしょうが、諸大名の足並みはなかなか揃わないのです。
流浪する中で藤孝は明智光秀に出会う
義秋の行動に危機意識をもった三好三人衆の三好長逸の軍勢3000騎が矢島御所を襲撃、しかしこの時は大草氏などの奉公衆が奮戦し、かろうじて三好長逸を撃退しました。
ところが、一方の義秋の大名連合による上洛は上手くいきません、上洛の約束を受けてやってきた信長は心変わりした斎藤龍興に襲撃され尾張に逃げ戻り、当初は義秋に協力的だった六角義賢と義治は三好三人衆に内通、身の危険を感じた義秋は矢島御所を棄て若狭の武田義統を頼ります。
義秋は武田氏に上洛の協力を頼みますが、武田氏は家督抗争と重臣の離反が相次ぎ、その余力はありません。失望した義秋は越前の朝倉義景を頼りますが、義景には義秋以外にも足利将軍の血筋を持つ人間を複数庇護しており義秋の上洛には消極的でした。
苛立つ義秋と対照的に、事実上、京都を支配している三好三人衆は朝廷工作と大名への根回しを進め、永禄11年2月8日に足利義栄は将軍宣下を受け14代将軍になります。
将軍宣下で遅れた義秋は衝撃を受け、縁起が悪いと名前を義昭に改め、朝倉義景を烏帽子親に元服します。義昭と共に長期放浪する藤孝は経済的に困窮し、灯籠の油代もなく寺社からもらう程に落ちぶれていましたが、越前で藤孝は明智光秀と運命の出会いを果たしました。
明智光秀が織田信長のパイプ役を務め上洛
光秀の前半生は不明ですが、義昭や藤孝が越前に滞在していた頃、光秀も越前長崎称念寺に滞在していたようです。そこで義昭に気に入られ足軽衆として組み込まれたとも言われます。
一方で、宣教師フロイスの記述では、細川藤孝の臣下のような扱いであったとも伝わります。
一度は信長に期待し、龍興の裏切りで失敗した義昭ですが、永禄10年8月15日、信長は宿敵斎藤龍興を西美濃三人衆の協力により追放し美濃を手に入れます。上洛への障壁が消えた事で義昭は再び信長に上洛準備を命じコンタクトを取ります。
その取次には教養人であった細川藤孝が当たりますが、パイプ役として明智光秀も活動していた事が分かっています。永禄11年8月に信長が藤孝に宛てた書状にも、
「詳細は明智に申し含めました。義昭様によろしくお伝えください」とあります。
当時の書状は敵の手に渡る事を警戒し、肝心な部分は使者に伝えていたので、余程の信用がない限り使者には立てられませんでした。光秀は信用を得ていたのでしょう。ここから、藤孝と光秀の長い付き合いが始まります。
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