魏延と諸葛亮が明確に対立しているというのは、主に三国志演義での創作の所があります。三国志演義では魏延が投降した際に諸葛亮が「反骨の相」と言って処断することを劉備に進めるなどして、後々の二人の険悪さを予感させるシーンが挿入されていますね。
また北伐、長安急襲作戦で魏延との考えの違いなど、色々ときしみを感じさせるようになっています。今回はこの北伐について、史実ではどんな感じであったのか詳しく説明したいと思います。
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三国志演義と正史三国志の違い
正史三国志では魏延は勇猛でプライドの高い人物と書かれていて、孔明からも重用されています。ただ正史三国志でも魏延は北伐で自分の策を採用されなかったことから、孔明について臆病だと嘆いていました。
一方三国志演義ではどうかと言うと、まず魏延自体が扱いにくいような人物として描写されています。このため諸葛亮も魏延は災いの種であると思っているけれど、人材不足な蜀では魏延を用いざるを得ない、という関係ですね。
魏延の作戦とは?
さて三国志演義では諸葛亮との関係が悪化した理由として「諸葛亮が魏延の策を却下した」というものがあります。これに関しては正史三国志でも魏延が策が用いられず嘆いていたとありますが、その作戦については魏延伝に書かれています。
一万の兵で魏延が本隊とは別の道を進軍する。潼関で落ち合おう。実は魏延の策についての記載はこれのみです。要するに史実の魏延の策に関しては諸葛亮が却下したことは分かっても、具体的な作戦は実は分かっていないのです。
三国志演義ではどうなっているか?
そしてこれが三国志演義ではどうなっているかと言うと魏延が五千の兵を率いて十日で長安に到達すればここを任されている夏侯楙は逃走するから大丈夫。魏の軍勢が着くまでは二十日かかるのでその間に諸葛亮も合流すれば良い。食料は現地で調達すれば良し。
主にこういう風になっています。魏延伝よりも詳しく書かれていますね。そしてこれは決して三国志演義での創作ではありません。
魏延の作戦は魏略より抽出された
この魏延の策については、魏略に注釈されているものです。おそらく三国志演義での魏延の策については、この魏略での注釈から生まれたものではないかと思います。
ただこの魏略は魏の史書とも言うべき重要な書類ですが、魏以外の情報記載は信憑性が薄いと言われているものです。確かに蜀の作戦が魏の書物に残されているというのも不思議な話でしょうね。とは言えこの作戦は諸葛亮に却下されたのは魏延伝から読み取ることができます。
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