NHK大河ドラマ麒麟がくる12話「十兵衛の嫁」では、明智十兵衛が幼馴染の妻木煕子と結婚する回です。朴念仁の十兵衛も年貢の納め時という事ですが、室町時代のリアルな結婚生活って、どんなものでしょうか?
意外!室町時代は嫁姑が食卓を囲むのは稀
戦国時代のドラマというと、新婦が新郎の家に嫁ぐと家族揃って食卓を囲む、、なんて絵が想像されます。貧しくも家族が肩を寄せ合い暮らす、ああ昔はいいなあ、、というノスタルジーですが、どうもこれ歴史的に正しくないようです。というのも、中世の武家屋敷を復元すると、一棟に竈が複数存在していて、二世帯同居はしても食事は別々というのが室町時代の標準だったからです。
つまり、大河ドラマ的には、嫁と姑が同じ時間に食卓を囲むというのは、リアルではない事になりますね。
平安時代はもっと徹底していて、貴族の間では二世帯同居は不吉でさえあり、敷地内に別々に住居を建てて住んでいて嫁姑問題など無かったのです。現在の離婚原因にも、嫁姑問題は大きいですから、室町時代の方が羨ましいとさえ言えるのかも・・
それから、当時は結婚しても女性の姓は変わりませんでした。十兵衛の妻になった妻木煕子も、明智煕子になる事はないのです。日野富子が足利義政の妻になっても足利富子にならないのと同じです。日本で夫婦同姓が始まるのは明治31年の事のようです。
室町時代の離婚
結婚があれば離婚もあります。では室町時代の離婚はどんなものなのでしょうか?
現代の離婚は両性の同意を前提として、離婚届に双方がサインすれば成立しますが、室町時代はもう少し簡単でした。
室町時代の狂言、箕被には、当時の離婚についての興味深い風景が描かれています。それによると夫の連歌狂いに愛想を尽かした妻は、離婚しようと夫から「暇の印」を得ようとします。夫も離婚に同意して、農具の箕を離婚した証として与えました。
妻が何気なしに箕を頭上に被くと、その姿から夫は「三日月」に掛けた発句を詠み、妻はそれを受けて機転の利いた脇句を付けます。このやりとりで夫には、妻への恋慕の情が湧き、離婚を取り消すというあらすじになっています。
この狂言は室町時代、妻が離婚する時には夫の同意が必要だった事、その為に夫の家から何らかの道具を持ってくる必要があった事を伝えています。この暇の印は、暇状とも言いますが、夫の家のものなら何でも、それこそ塵の如きものでもよく妻が再婚する際に、確かに離婚した証として必要でした。それはつまり、当時は離婚したしてないで揉める男女が多かった事を意味します。
暇の印は、やがて江戸時代には三行半へと姿を変えていくようになります。
離婚は不利益ではない
戦国時代の離婚については、イエズス会の宣教師であるルイス・フロイスの記述が有名です。例えば1585年のヨーロッパ文化と日本文化の第二章では
ヨーロッパでは、妻を離別することは、罪悪である上に、最大の不名誉である。
日本では意のままに幾人でも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる 。
汚れた天性に従って、夫が妻を離別するのが普通である。日本では、しばしば妻が夫を離別する。
このように述べていて、多くの離婚は男性から切り出されるものの、女性も離婚するケースがありました。また、当時は離婚は、女性の価値を下げる事にはならず、女性の再婚は普通なのでした。
武家においてはむしろ、子持ちの離婚女性はお産が軽く多産に強いとして、徳川家康は、子持ちの離婚経験のある女性を多く側室にしました。当時には、バージンに拘る現代とは違う価値観が存在したのです。
室町時代はシングルが多く離婚は悲しかった
離婚が多かった室町時代ですが、武家や貴族のような権力者が一夫多妻制をとる一方で、庶民には、結婚できない膨大な数の男女がいたようです。大きな理由は農地の生産性が低く、男女二人だけでは暮らしが立たなかったせいで、長男夫婦の下で下男・下女として、食べさせてもらいつつ生涯を終える人もいたのです。
また、戦国時代当時は人の下人として所有物扱いの人々も大勢いました。下男や下女は、決して結婚できないわけではありませんが、下男・下女と結婚した人の身分も下人に落ちるという取り決めがあり、結婚のハードルが高かったのです。
戦国時代の分国法、今川仮名目録の第七条には、
主人に届け出ることなく、下女に通った男性は殺されても仕方なし
とあり、中世には婚姻によって、社会的身分が低下したり、殺されたりする事さえありました。だからこそ、多くの男女には結婚は今よりも憧れがあり、離婚するのは悲しい事だったのです。
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