昔の日本の怖い習慣と言えば、なんと言ってもさらし首でしょう。敵や罪人の首を斬って衆人環視の中にさらすというのは、まさに野蛮の極致でこんなものを生で見たら数日悪夢にうなされそうです。
でも、この残酷な、さらし首の習慣は一体いつ頃生まれたのでしょうか?
この記事の目次
平安京のさらし首第一号は平将門
桃崎有一郎著、京都の誕生 武士が造った戦乱の都によると、私の知る限りというカッコつきながら、平安京におけるさらし首の第一号は坂東で大和朝廷に反乱を起こして藤原秀郷に敗れて首を討たれた平将門であるようで、天慶3年(西暦940年)の事のようです。
大和朝廷は、自分に弓を引いた平将門を討伐するだけでは許さず、見せしめにせんという意図から藤原秀郷に将門の首を送るように命じました。天慶3年4月、平将門の首は平安京に到着、首は髻を解いてから、当時の平安京の市場であった東市の木の枝に髪を巻きつけて、長期間さらされたという事です。
どうして、市で首をさらすのかと言うと、市場は平安京の様々な階層の人間がやってくるショッピング場所であるので、お上に逆らえば、どんな悪党もこうなるのだ!お前らなめるなよ!という警告の意味を狙っていました。将門の首は朝廷の政治ショーの道具になったのです。
将門の首は賞金首だった
日本史では、大同五年西暦810年に起きた薬子の変を最後に、朝廷は死刑の確定判決を出さなくなったので、しばしば歴史家は、薬子の変後、保元の乱まで死刑は廃止されていたと説明しがちですが、現実には違うようです。
というのも、平将門の乱に手を焼いた朝廷は将門を討った者には褒美を与えると布告し、将門を見つけ次第、誰でも死刑を執行する事を許しました。これは戦争ではなく死刑執行の権限を委譲した法律命令でした。
そこで、藤原秀郷は自ら死刑執行を実行し、その証拠として首を平安京に送ったのです。秀郷は討伐の手柄で、元々、京都で仕えた事もない六位官人という低い身分でしたが、一躍、従四位下に叙され下野守に任ぜられた上、武蔵守、鎮守府将軍も兼任する破格の出世を遂げました。
次から次に首が送られる平安京
こうして、朝廷が死刑を命じた罪人の首を斬ると褒賞が貰えるというテンプレが出来ると、各地の地方武士から、続々と謀反人の首が平安京に届くようになります。平将門が滅亡した翌年、天慶4年には前山城掾の藤原三辰の首が伊予から届きます。三辰は「海賊中の暴悪の者」と称された藤原純友の一派でした。
さらに、その半年後には、東国の将門西国の純友と呼ばれた海賊、藤原純友の首と、その子供の重太丸の首が伊予から届きました。このように、朝廷が褒美を餌に追捕を命じた罪人を、別の武士が捕らえて首を斬るというパターンが繰り返されるようになります。褒美目当ての武士から、ゴロゴロと罪人の首が送られてくる平安京、うーんカオスですね。
地方の戦勝を平安京で凱旋する武士
このような経緯で、武士にとって敵将の首を取るのは、そのまま恩賞に繋がる特別な事になっていきました。初期こそ、ただ首を平安京に送るようになった地方の武士ですが、それから、百年余りも経過すると首を送るだけでは満足せず朝敵を討ち果たした自分の武勇を平安京の人々に見せびらかしたいと思うようになります。
康平5年(1062年)陸奥守兼鎮守府将軍、源頼義が陸奥奥地の豪族安倍氏を討ちます。世に言う前九年の役です。頼義は残務処理として陸奥に留まりますが、家人の藤原季俊という男に安倍貞任等3人の首を平安京に届ける任務を任せます。
翌康平6年の2月、平安京に辿り着いた季俊は粟田口という平安京の玄関口で住民の熱烈な歓迎を受け、騎兵2名、歩兵20名で完全武装をして悠然と粟田口を練り歩きました。
実際はその頃、京都に軍事的危機はなく鎧兜は必要なかったのですが、それらは全て、朝廷の敵を討った凱旋将軍、源頼義の自己PRの為に行われていた演出でした。平将門の首を平安京に送るだけで満足していた藤原秀郷よりも、後の武士は功名心が強くなり、平安京で自己の手柄を誇示する事を望んだのです。
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