皆さんは、御百姓さんというとどんな人々をイメージしますか?
おそらく、ほとんどの人は農業に従事している人を思い浮かべるのではないでしょうか?そもそも、江戸時代まで武士以外は99%農民だったと考える人が大半ではないかと思います。でも、この認識、本当は間違っているかも知れないのです。
この記事の目次
鎌倉時代から顕著になる大飢饉の不思議
意外ですが、日本において飢饉が本格的に問題になり始めるのは13世紀頃だそうです。
もちろん、それ以前から凶作はあったのですが、社会的に飢饉が決定的な意味を持ち、政府が飢饉そのものを正面から取り上げるようになったのは鎌倉時代からであり、1230年の寛喜の飢饉、1258年の正嘉の飢饉に始まり、室町時代には寛正の大飢饉があり、江戸時代には、寛永・延宝の飢饉、そして、享保・天保・天明の江戸の三大飢饉に繋がります。
では、どうして、飢饉の被害は鎌倉時代からより大掛かりで悲惨なものになったのか?当時の政府が対策に乗り出し、知識人が記録に残すようになるのは何故なんでしょうか?気候変動が凶作の理由である事はもちろんですが、それが飢饉という現象になって現れる理由について、そしてそれが鎌倉時代以降に顕著になる事については、あまり深い考察がされてきませんでした。
銭の不足と食料の騰貴が飢饉の原因
その手掛かりとなるのが、「妙法寺記」と言う15世紀後半から16世紀にかけての甲斐国の富士・吉田の状況を書いた記録です。甲州では国中に対して郡内と言っていますが、都留郡吉田のその頃の状況が分かる資料です。
それを見ると、しばしば小規模な飢饉が起きている様子が見え、売買が高いと飢饉が起こり、売買が安いと世間が福貴すると書かれています。そして、売買されているものと言うと、これが米、麦、小麦、粟、稗、大豆という穀物なのです。だから、食料価格が上ると飢え、下がると富貴になると書いてあるわけですね。
また、当時の言葉として「銭けかち」という言葉があり、16世紀になると撰銭が横行して粗悪な貨幣が通用しなくなり、相場は安いのに食糧が買えないという状況も起きています。
従来貧しい土地と言われてきた郡内
物価と銭の関係がどうして農民に繋がるのか?これが繋がるのです。実は、先ほど紹介した郡内という地域は、従来、しばしば飢饉が起きる非常に貧しい地域と考えられていました。
事実として郡内は、今でも水田は極めて少なく、水田が多いと豊かで少ないと貧しいという従来の図式で考えると、農業が振るわないから郡内は貧しいと捉えられてきました。しかし、先ほど紹介した妙法記には、従来の考え方を覆した内容が書かれていましたね。
つまり、水田が少なく貧しいから飢饉が起きたのではなく、凶作で穀物が騰貴したり、撰銭により悪銭が使えなくなり食糧が買えなくて飢饉が起きたというわけで、という事は、郡内の人々は水田もないのにお金を持っていた事になり、根本的に農業を生業にしていたわけではない事が分るのです。
郡内は富士山詣の宿場町として栄えた
実は郡内吉田は富士参詣の道者が沢山の参詣人を連れてくる宿場町でした。旅行と言うと江戸時代からと考えがちですが、実は室町時代から戦国にかけても地域ごとに街道のネットワークが整備され、頻繁な関所など面倒な部分も多かったものの、それほどリスクも不便もなく当時の人々が旅出来た事が、永禄六年北国下り遣足帳のような僧侶の旅行記に出てきます。
話が逸れましたが、このような参詣人が吉田の宿場に大勢逗留し、銭を落としていましたと考えられます、室町から戦国期の吉田は宿場町として都市化していたのです。ここには、室町時代の人々が必ずしも農民ではなく農業で生計を立てているわけではないという事実が見えてきます。
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