幕末を彩る志士たちの伝記に、しばしば登場するキーワード、「脱藩」。文字通り、生まれ育った藩を「抜ける」ことです。現代風に言えば、組織生活を飛び出してフリーランサーになるような話、といえなくもないのですが、身分制度の厳しい江戸時代の武家社会において、そんな勝手な行為は本来決して許されないことでした。
ですがそのわりに、かの坂本龍馬を含め、「脱藩して重罪人となったが、その後の活躍に免じて許された人」がかなりたくさんいるようにも、思いませんか?
いったい、脱藩とは何だったのでしょうか?
実際には、どれくらいの罪の重さだったのでしょうか?
この記事の目次
タテマエは「重罪」だが実際の処分はケースバイケース?
そもそも、江戸時代の「藩」というもののですが、実は「藩」という言葉は、後世になってから一般的になった名詞。江戸時代の武士たちは自分の育った藩のことを「藩」とは呼んでいませんでした(よって本当は「脱藩」という言い方もおかしいのですが、細かい話はヌキにして)。
江戸時代の武士が自分の出自を言うときは、「薩摩の島津家に仕える者」とか、「長州の毛利家に仕える者」とか、あくまでも「主君たる〇〇家に仕える武士である」という言い方だったそうです。
つまり太平の江戸時代にあっても、武士たちは、カタチだけは鎌倉時代や戦国時代のままの「〇〇家に忠義を尽くす家臣」というアイデンティティで生きていたわけです。
「脱藩」というのは、そんなアイデンティティを自ら勝手に捨てること。江戸時代の社会秩序の「タテマエ」そのものを揺るがす、不届き千万なことだったのです。当然、「そんなことは武士社会で許されない!脱藩したら重罪人!」ということになるのですが、よくよく調べると、どうもこれも結局は「タテマエ」だったようで。
実際には、脱藩した人をどれくらいの罪に問うかは、けっきょくは主君である「〇〇家」の殿様(ないし重臣たち)がケースバイケースで判断していたところがあったようです。寛大な処置で許してやる大名もいれば、徹底的に厳罰で対処する大名もいました。それは「それぞれの藩の事情と価値観」にゆだねられていたようなフシがあります。
脱藩がうまくお咎めナシになったケース:坂本龍馬と吉田稔麿の場合
事例として、脱藩したが結果として「おとがめなし」になったケースを、二つほどあげてみましょう。有名なのは、坂本龍馬の場合。土佐藩を脱藩し志士活動に邁進していた彼は、勝海舟との劇的な出会いを果たします。
そして坂本龍馬が結局、土佐藩から重罪を食らうことなく済んだのは、その勝海舟が土佐藩主の山内容堂にかけあったおかげとされています。
「お宅から脱藩した、坂本という若者のことですがね。見込みのある若造で、私が面倒を見ますから、脱藩のことは許してやってくれませんかね?」というような、勝海舟のカリスマと説得力で、山内容堂のOKをもらったようです。さすがは勝海舟!という見方もできますが、「脱藩は重罪」というタテマエはあれども、殿様が「許してやる」と言ってくれれば助かる話という抜け道もあった点も、よくわかる事例ですね。
もう一人、謎めいている脱藩事例が、長州藩の吉田稔麿の場合です。この人も堂々と脱藩をして、志士として江戸で活動をしていたわけですが、後日、あっけなく長州藩にまた迎え入れられています。どうも吉田稔麿の場合は、長州藩からも公認で、
「お前は脱藩したというカタチで、江戸に行って政治活動に加わっていてくれないか」と、工作のために送り込まれていたフシがあるのです。
藩が秘密活動のために、公認で「脱藩したというタテツケで」家臣を派遣するということもあったとなると、ますます「脱藩」とヒトクチに言っても、いろいろなケースがあったのだな、とわかってきます。
「友達との約束に遅れそうだから脱藩します」吉田松陰の場合
もうひとつ、珍しい脱藩の事例を紹介しましょう。まだ黒船が来航する以前の平穏な時代だというのに、とんでもない理由で脱藩したオオモノがいます。
若き日の、吉田松陰です。この人の脱藩理由は、かなり突飛なものです。
・江戸に滞在中にできた友人に、「東北旅行にいこう」と誘われた
・当時、長州藩士が旅行に行くには藩の許可が必要だったため、松陰は藩に申請を出した
・ところがお役所仕事が遅々として進まず、友だちとの出発日に間に合わない懸念が出できた
普通、こうなったら、「許可をもらおうと申請を出したのだけど、なんか手際がめちゃくちゃ遅くて。ほんとゴメン、少し出発日を延期してくれないかな?」と友だちに謝れば、済みそうな話です。
ところが、さすが吉田松陰。
「友だちとの旅行の約束を破ることは、私にはできない!」と、それを理由に脱藩して、友だちと東北旅行に出かけてしまったそうです!
まとめ:一見すると微笑ましい吉田松陰の脱藩こそが重大処罰になった理由
これは吉田松陰のとにかく義に厚いキャラクターを象徴する事件であり、ずいぶん若かった年齢も考慮すると、微笑ましいエピソードでもあります。ところが、この松陰の脱藩こそ、長州藩は許しがたい暴挙とみなしました。帰国した松陰は士籍剥奪・世禄没収という厳しい処罰を食らいます。
幕末ライター YASHIROの独り言
過酷にすぎる処分にも見えますが、しかし長州藩の立場になってよくよく考えると、納得できるところもあります。先ほどの松陰のロジック、「友だちとの約束は意地でも守るべきだ!」という発想は、深読みをすれば、「藩のルールよりも、友だちとの約束のほうが優先だ!」と主張しているようにも解釈できる。
事実、松陰はその後、「藩」などというものに縛られない奔放な思想家として飛躍するのですが、すでにこの若き日のエピソードに、保守的な人々からみれば「旅行の約束の為に脱藩とは、バカにしとるのか!」と激怒するような、危険思想の種がたっぷり含まれていたといえるのではないでしょうか?
いずれにせよ「脱藩」とヒトクチにいっても、さまざまなケースと、人間ドラマがあった様子ですね。
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