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ハーメルンの笛吹き男は本当にいた?1284年6月26日の哀しい真実

2020年6月26日


 

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ハーメルンの笛吹き男

 

ハーメルンの笛吹き男とは、ドイツの街ハーメルンにおいて、1284年6月26日に起きたとされる一日にして130人の子供が消えた神隠し事件です。子供をさらったのは、ハーメルンの笛吹き男という派手な身なりをした男で、子供達は笛の音に吸い込まれるように男について行ったそうです。この奇怪な話はグリム兄弟を含む多くの人が手記に残し、現在まで伝わっていますが、この話は果たして本当なのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ハーメルンの笛吹き男とは?

君主論

 

最初に、ハーメルンの笛吹き男の話について少し解説しておきましょう。西暦1284年、ハーメルンの街では、ネズミが大繁殖し人々を悩ませていました。そこに、笛を持ち色とりどりの布で作った派手な衣装を着た男があらわれ、報酬を約束するならネズミを全て退治すると持ち掛けます。

 

街の人々は笛吹き男に報酬を約束すると男は笛を吹きます。すると、ネズミはそれに吸い寄せられるようにして集まってきました。笛吹き男はそのまま笛を吹き続け、ヴェーザー川まで歩いていきネズミを残らず溺死させたのです。

 

しかし、ネズミが消えるとハーメルンの人々は金が惜しくなり、笛吹き男に報酬を支払いませんでした。約束を破られた笛吹き男は、恨み言を吐いて一度街を出て行き、6月26日日曜日の朝に再びハーメルンに出現します。

 

この日は日曜日で大人たちは皆教会にいて、家には子供達しかいませんでした。笛吹き男が笛を吹きながら、通りを歩くと家から子供たちが次々出てきて男のあとをついてゆきました。

 

そして、130人の子供と笛吹き男は、街の外に出て行き、市街の山腹にある洞穴に入っていき、穴は内側から岩で塞がれ笛吹き男も子供たちも帰って来なかったというものです。

 

ハーメルンの笛吹き男の背後にあるのは?

内容に納得がいかないkawauso様

 

笛を吹いた男に子供達が何も言わずについていき、そのまま行方不明になるという不条理で不思議な話の裏には何があるのか?多くの人々がその謎の解明に挑みました。

 

ウィリアム・マンチェスターは、笛吹き男は精神異常の小児性愛者だと述べ、1484年の6月20日にハーメルンのザクセン人の村から130人の児童を誘拐し、五体をバラバラにして、森の繁みの中や木の枝に、手や足がぶら下がっているのを目撃されたと主張しました。ただ、この話には裏付けになる史料が一切ないそうです。

幕末 魏呉蜀 書物

 

また、別の説では、笛吹き男の正体は死神で、子供達はヴェザー川で溺死したり、土砂崩れで死亡したり、感染症で死亡したとされています。

 

それ以外には、子供達は何らかの巡礼や軍事行動、あるいは新規の少年十字軍運動として、街から消え去り、二度と両親の下に戻らなかったという説があり笛吹き男は運動のリーダーか新兵徴募官であったと見做されています。

 

事実、少年十字軍は、1212年とハーメルン事件の72年前に起きていて時期も近く、また、1260年のゼデミューンデの戦いで壊滅したハーメルン市民軍の記憶が変形し、笛吹き男に引き連れられた130人の子供達となったという説も一時は支持されました。

 

古代オリンピック

 

笛吹き男に連れられたのは子供ではなかった?

kawausoと曹操

 

ハーメルンの笛吹き男の物語の背景として、現在、もっとも支持されているのは、ハーメルンの子供達は東ヨーロッパの植民地に向かい、彼ら自身の意志で、両親とハーメルン市を捨てたというものです。

 

それによると、1227年、ボルンホーフェトの戦いにおいてドイツ諸侯軍がデンマーク軍を打ち破り、スラブ人が住んでいた南バルト海沿岸がドイツの植民地として利用可能になり、その植民としてポメルン、ブランデンブルク、ウッカーマルク、プリクニッツの司教や公爵達が口の達者なロカトールという植民請負人を送り出して新天地への移住を望む貧しい人々を口先で丸め込んで東に向かったというのです。

ジャンヌ・ダルク

 

ロカトールは職務上目立つ必要があったので、笛を吹き奇抜な服装をして、植民希望者を募ったのかも知れません。当時のドイツは、余りにも多くの人口を抱えながら土地は痩せており長男以外は土地も権力も相続できず、農奴に落ちるという貧しさの極みにありました。そこで奴隷になるよりは、ロカトール=笛吹男の口車に乗り希望と不安を抱えて住み慣れた街を出て行ったのです。

 

 

では、どうして大人なのに子供が130人連れ去られた事になったのか?

 

これは日本で言う、博多っ子や浜っ子と同じでハーメルンで生まれたハーメルンっ子という意味で、若者を意味しており、それが転じてハーメルンの子供たちになったようですね。

 

類似する地名と人名

 

 

ハーメルンから東方に人間が移動した証拠としては、東方植民地に見られる多くのヴェストファーレン由来の地名が挙げられます。

 

例えば、ヴェストファーレンからポメルンに至る街道にはヒンデンブルクと呼ばれる村が5か所、同じく東シュピーゲルベルクと呼ばれる村が3か所あり、ハーメルン南のベフェルンゲンに由来するベルリン北西のベフェリンゲン、現代のポーランドにあるベヴェリンゲン等の地名が挙げられるそうで、植民したハーメルンの人々が故郷の地名を入植地につけた名残と考えられます。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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