

土方歳三は新選組鬼の副長として局長近藤勇を補佐した人物です。剣技ばかりでなく、統率力にも優れ最盛期には300人にも膨れ上がった新選組隊士を局中法度で縛り上げ、死の制裁をもって鉄の団結力を持つ組織に成長させました。
しかし、土方が命を懸けて守ろうとした徳川幕府は江戸城無血開城を以て崩壊します。尊王攘夷派に蛇蝎の如く嫌われた新選組、その副長の土方歳三は降伏を潔しとせず、死に場所を求めて東北を転戦、ついに運命の地五稜郭に向かいました。
大政奉還から鳥羽伏見
慶応3年6月、土方や近藤は幕臣に取り立てられます。しかし、これは事態が風雲急を告げている事の序章に過ぎませんでした。同年10月14日、徳川幕府15代将軍徳川慶喜は大政奉還し将軍職を辞します。12月9日には王政復古の大号令が発せられ江戸幕府は事実上終焉しました。慶応4年1月3日には、新政府軍と旧幕府軍の間で、鳥羽伏見の戦いを端緒とする2年間も続く戊辰戦争が幕を開けます。
新選組も旧幕府軍として招集されますが、局長の近藤は京都の墨染で御陵衛士の残党に狙撃され負傷、新選組の指揮は土方が取る事になりました。しかし、少数ながら戦術と武器と士気に勝る新政府軍に寄せ集めで武装の統一もとれない旧幕府軍が大敗します。
この後、江戸城に登った土方は佐倉藩江戸留守居役の依田学海に戦況を尋ねられると
「もう戦争は大砲の時代です、私は剣を帯びて槍を執りましたが、少しも用いる機会がありませんでした」と答えています。
ただし、この頃には新選組も有名なダンダラ模様の羽織ではなく、フランス式の幕府軍歩兵に合わせ、黒羅紗・筒袖の黒っぽい軍装に変わっていました。なので、ここで敗北したから土方が刀と槍の時代は終わったと気づいたわけではなさそうです。あくまでも、新政府軍に比較して旧幕府軍の装備が遅れていたという意味ではないかとkawausoは考えています。
近藤勇、降伏して斬首
鳥羽伏見の戦いに敗れた後、新選組は大坂から江戸に撤退、追われる側になった近藤と土方は、近藤が大久保剛、土方は内藤隼人と偽名を使い新撰組を「甲陽鎮撫隊」に改名して甲府城に向かいます。しかし途中の3月6日、甲州勝沼の戦いにて大敗。土方は戦争前に急ぎ援軍要請へ向かったが成功しませんでした。
その後、甲陽鎮撫隊は、流山で再起を図るものの、4月3日、新政府軍に包囲された近藤が大久保大和と名を偽り投降して捕縛されます。包囲された頃、近藤勇は切腹しようとしていましたが、土方が投降を勧めたと言われています。
土方は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命嘆願しますが、敗戦処理をどうするかで手一杯の状態で、近藤を何とか出来るわけもなく近藤は板橋刑場にて、罪人として斬首されます。
土方は近藤の分まで暴れ回る決意をしたのか、斎藤一を会津に向かわせて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流。4月11日に江戸城が無血開城すると、江戸を脱出した土方は、秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務め宇都宮城の戦いに勝利して城を陥落させます。
ところが直後の壬生の戦いでは破れ、宇都宮城を奪還しに来た新政府軍と再戦した時に足を負傷、会津に護送され、そこで3カ月間の療養生活を送り天寧寺に近藤勇の墓を建てたと伝わります。
会津でも敗れ運命の五稜郭へ
土方は、全快すると戦線に復帰し会津の防戦に尽力しますが、8月に母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化します。そこで、援軍を求めて庄内藩に向かうものの、すでに新政府軍に恭順していた庄内藩においては入城さえ出来ず、土方は会津から仙台藩へ向かうことを決めます。
土方の腹心であった斎藤一は、大鳥圭介や土方に、転戦せずに会津に残って抗戦する事を訴え、土方は斎藤とも袂を分かちました。土方は仙台に至って榎本武揚率いる旧幕府海脱走艦隊と合流。榎本とともに奥羽越列藩同盟の軍議に参加しますが奥羽越列藩同盟がまもなく崩壊。
同盟藩が次々と新政府軍に降伏すると、交戦に見切りをつけて新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船します。こうして、土方と新選組は、榎本艦隊と現宮城県石巻市折浜を出航し蝦夷地に向かいました。
蝦夷共和国が建国
蝦夷地鷲ノ木に上陸後、土方は間道軍総督となり五稜郭に向かいます。箱館・五稜郭を占領した後に、土方は仙台藩士で構成された額兵隊などを率いて松前に進軍して松前城を陥落させ、その残兵を江差まで追撃します。
この時、榎本武揚は軍艦開陽丸で土方軍を援護して江差沖に向かったものの、途中で暴風雨に遭い座礁、そのまま江差に上陸し開陽丸の沈没を見届けました。旧幕府脱走艦隊の主力、開陽を失ったのは後々まで痛恨の痛手となります。
江差を占領した土方は、松前城に一度戻り、榎本が各国の領事を招いて催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋します。その後、幹部を決定する選挙を行い榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国が成立、土方は幹部として陸軍奉行並となり、同時に箱館市中取り締まりや陸海軍裁判局頭取も兼任します。
短い生命で終る蝦夷共和国も、この時ばかりは祝賀ムードでしたが、土方は冷静で1月から2月にかけて箱館・五稜郭の整備にあたります。3月、新政府軍襲来の情報を掴んだ土方は、新政府軍の最新鋭軍艦、甲鉄奪取を狙い宮古湾海戦に参加します。
運命の宮古湾海戦
土方は宮古湾に停泊している新政府軍軍艦の甲鉄を奪取しようと計画します。奪取方法はアボルタージュ作戦、つまり船を接舷して乗り込み拿捕するという大航海時代のような方法です。
当初、蝦夷共和国は、回天、蟠竜、高雄の3隻で甲鉄奪取に向かう予定でしたが、高雄が暴風雨で機関を損傷、やむなく2隻は宮古湾の隣の山田湾で待機します。
この後、蟠竜は鮫村沖で待機し、回天と高雄と別々でしたが、2隻は目前の甲鉄を奪取する事を決意、時間が掛かるので蟠竜と合流せず、回天はアメリカ国旗、高雄はロシア国旗で甲鉄に近づき、直前で日章旗に付けかえて甲鉄に斬り込むと決めます。
明治2年3月24日深夜、山田湾を出港して宮古湾へ向かう途上高雄が再び機関故障を起こします。ただし航行は可能であったので作戦を変更し、まず回天が甲鉄に接舷して先制攻撃をし、高雄が途中で参戦して残りの艦船を砲撃すると作戦変更します。ところが高雄の機関の不調は相変わらずで、焦れた回天は高雄を待たずに単独で宮古湾への突入を敢行しました。
舷側の高さが合わない!痛恨のミス
この時蝦夷共和国サイドには幸運な事に新政府軍艦隊は機関の火を落として落としていました。また、アメリカ国旗を掲げた回天の接近にも特に注意が払われず、すんなりと近づけます。甲鉄に接近した回天は作戦通りアメリカ国旗を下ろし、すぐさま日章旗を掲げて接舷。その時、甲鉄の隣で唯一警戒に当たっていた薩摩藩籍の春日から敵襲を知らせる空砲が鳴り響きます。
しかし奇襲には成功したものの、回天は舷側に水車が飛び出した旧式の外輪船で横づけが不可能でした。
ええ!、それはもっと前に分かりそうな事のような・・その為、回天艦長の甲賀源吾の必死の操舵も空しく、回天の船首が甲鉄の左舷に突っ込んで乗り上げる形になります。
さらに回天は大型の非装甲軍艦であるのに対し、甲鉄は小型で重い装甲をまとっているため舷側が低く、回天の艦首とでは3メートルもの高さがついてしまいました。やっぱり高雄を待っていれば、、なんて今さら言っても仕方ありません。
回天からは先発隊が甲鉄の甲板に怪我覚悟で飛び降り、斬り込んでいきますが、回天の細い船首からでは乗り移る人数が限られました。おまけに、飛び降りたポイントはガトリング砲など強力な武器が装備されており乗り移る前に回天甲板上で倒れる兵が続出し、回天側からは負傷者が続出しました。
もたつく間に、春日以外の新政府軍艦船も戦闘準備が整い、回天は敵艦隊に集中砲撃を浴びハチの巣になります。回天艦長甲賀源吾は腕、胸を撃ち抜かれても、なお指揮を執りますが頭を撃ち抜かれて即死。
もう潮時だと、荒井郁之助が作戦中止を決め、自ら操舵して回天は宮古湾を離脱しました。甲鉄に斬り込んでいった野村利三郎ら数名は撤退に間に合わず甲鉄に取り残され戦死しました。その間30分だったと言います。回天、蟠竜は砲撃を繰り返しながら何とか新政府軍を振り切りますが、問題は高雄で機関の故障で速力が出ず甲鉄と春日に補足されます。
高雄艦長、古川節蔵以下95名の乗組員はやむなく田野畑村付近に上陸し、高雄を焼いたのちに盛岡藩に投降しました。こうして、甲鉄奪還作戦は、高雄一隻が自沈、兵士15名戦死の失敗に終わったのです。土方は生還しましたが、圧倒的に海軍力で不利が確定した今、兵糧攻めを避けられなくなった蝦夷共和国の命運は半分決したようなものでした。
土方歳三の最期
明治2年4月9日、新政府軍が蝦夷地の乙部に上陸、土方は二股口の戦いで新政府軍の進撃に徹底抗戦します。途中、新政府軍はすでに包囲が完了したと思わせる為に鈴を鳴らして土方軍の動揺を誘いますが、土方は本当に包囲したなら鈴を鳴らすような事はしないと見抜いて部下を落ち着かせました。
この頃、土方は部下に自ら酒を振る舞い、酔って軍規を乱しては困るので一杯だけだと冗談口を聞いて部下を落ち着かせました。かつての鬼の副長のイメージは影を潜め、土方は部下に取って、何でも相談できる母のような存在だったようです。
土方隊は士気も結束も高く連戦連勝しますが、もう一つの松前口が破られ退路が断たれる危険が出たので、やむなく二股口を放棄して五稜郭へと帰還しました。明治2年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始されます。
この時、元新選組の島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立しました。土方は島田を救出すべく、わずかな兵を率いて出陣。同じ頃、新政府軍艦朝陽丸が味方軍艦の砲撃で撃沈されたのを見て土方は「この機を逃すな」と大喝。箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じ敗走してくる味方を押し出し、「我この柵にありて、退く者を斬らん」と宣告します。
こうして、土方は一本木関門を守備、七重浜より攻め来る新政府軍に対応して馬上で指揮を執りましたが、その乱戦のなか腹部に新政府軍の銃弾を受け落馬しました。
土方の命令によって台場方面に進軍していた大右仲野率いる部隊は一時勢力を盛り返しましたが、必死の指揮も空しく総崩れになり、大野が一本木関門に引き返すと、同じく陸軍奉行添役の安富才助から土方が撃たれたことを知らされ、急いで駆けつけますが土方はすでに死んでいました。享年34歳。
幕末ライターkawausoの独り言
土方歳三にとって、近藤勇が斬首されたのは大きな衝撃だったのでしょうか?
自分が近藤の切腹を止めた結果として、罪人として斬首された近藤、そこから土方は転戦を繰り返し、日本の最果て蝦夷地の五稜郭で死ぬ道を選びました。武士らしく潔く諦めてしまった近藤と、最後までベストを尽くした土方、二人の対照的な最期には考えさせられますね。
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