日本古代史最大の謎と言えば、邪馬台国の所在地です。魏志倭人伝の記述を根拠に大きく分けて、九州説と畿内説があり今の所論争に決着はついていません。しかし、古代史家の安本美典氏によると邪馬台国は九州福岡県にあり、卑弥呼の墓も福岡県朝倉市にあると推定しているようなのです。
今回は、邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!! 「畿内説」における「失敗の本質」勉誠出版を参考に卑弥呼の墓について考えます。
※こちらの記事は断定した事実ではなく一説としてお楽しみ下さい。
この記事の目次
九州に邪馬台国がある理由1:圧倒的な鉄器の差
安本氏が九州邪馬台国説を推す大きな理由は、畿内と九州の遺跡から出土する鉄の鏃と銅鏡の枚数の大きな差です。魏志倭人伝にも、竹箭或鐵鏃或骨鏃とあり、邪馬台国では、竹か骨か鉄の鏃をつけていた事が記述されますし、同じく魏志倭人伝には魏の明帝曹叡が卑弥呼に銅鏡百枚を与えた記述もあります。
そこで、安本氏が全国の遺跡から出土した弥生時代の鉄の鏃と鏡の枚数を県別に比較してみると、鏃は九州が圧倒的に多く、福岡県と奈良県の比較では、福岡県398個、奈良県4個という結果。次に鏡ですが、こちらは福岡が30面、奈良県が3面と大差がついています。さらに魏志倭人伝に登場する、絹、勾玉、鉄刀や五尺刀、鉄の矛の出土数では、
絹:福岡県15地点 奈良県2地点
勾玉:福岡県29個 奈良県3個
鉄刀:福岡県33振 奈良県0振
五尺刀:福岡県1本 奈良県0本
鉄矛:福岡県7本 奈良県0本
このように、奈良と福岡では圧倒的な差がつき、鉄器と銅鏡で考えるなら邪馬台国九州説の方が圧倒的説得力を保持しているのです。
卑弥呼の墓が福岡県平原遺跡である理由
では、そんな邪馬台国の女王卑弥呼の墓はどこにあるのか?
テレビ等のマスメディアでは、奈良県の纏向遺跡が注目を浴びていますが、安本氏は纏向ではなく、九州福岡県の平原遺跡の中心にある第一号墓こそが、卑弥呼の墓であると推定しています。その大きな理由は、この平原古墳1号墓からは、40面もの銅鏡が出土している事で、ひとつの墓から出土した数としては、現在日本で2番目の多さだそうです。さらに、その銅鏡のうち5枚は日本で発見された銅鏡では最大サイズの46.5㎝もありました。
ただ、出土した銅鏡は、前漢鏡一面と後漢鏡一面以外の38枚は日本製で中国の銅鏡ではありません。しかし、前漢鏡一面については、この形式の銅鏡としては中国でもトップクラスのもので、中国への朝貢国の中でも上位に位置付けられていた証だそうです。
弥生時代の日本で、特に形式が高い銅鏡を与えられた女王が眠る墓、、だとすれば、これは邪馬台国女王卑弥呼の墓と考えるのが妥当ではないでしょうか?
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
元々墓は伊都国女王の墓とされたが・・
従来、平原遺跡の一号墓は伊都国の女王の墓と考えられてきました。どうして女王かというと、他の墓に比較して武器の出土品が少なく装飾品が多く出土した為でした。しかし、魏志倭人伝の記述によると、伊都国には以前、代々王がいたものの、この墓が築かれた3世紀頃には南にある女王国に服属そこには大軍が置かれて、諸国を厳しく監督し、政治の中心が伊都国であったと書かれています。
だとすれば、平原遺跡一号墓は伊都国の女王ではなく、邪馬台国の卑弥呼である可能性が高くなります。
平原遺跡が注目されない理由
では、どうして卑弥呼の墓かも知れない平原遺跡に注目が集まらないのでしょうか?
それは、在野の考古学者の原田大六という人物が、平原遺跡を調査、ここから鏡、剣、勾玉の3種の神器が揃って出土した事を根拠に、この墓を天照大神の墓と主張した為でした。
原田大六が平原遺跡を調査したのは1965年で、日本はマルクス主義の左翼学者が多い時代であり、古事記や日本書記は権力者の作り話という風潮が圧倒的で、ましてや戦前の皇国史観への反動から神話についての抵抗も大変強い時代でした。そこに、原田大六の天照大神の墓と来たので、考古学会はトンデモ説として、これを黙殺してしまったのです。その経緯で、平原遺跡はなんとなく盛り上がりに欠ける遺跡になったのです。
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