柴田勝家は言わずと知れた織田家の筆頭重臣です。しかし、最初から信長に信用されていたかと言うとそうではなく、元々は信長の弟の信勝に仕え、稲生の戦いでは信長に槍を向けた事もある敵対関係でした。
ところが、主君信勝の器を見限ると、信長に信勝謀反の情報を伝えて取り入り手柄を立てていきます。これだけ聞くと、ダーティーな下克上人物のようですが実際は信長についてからは、遂に死ぬまで叛かなかった忠義者でもあったのです。
※今回は歴史REAL織田信長 一族と家臣から迫る織田軍団の全貌を参考に、柴田勝家について解説してみます。
この記事の目次
織田信勝の重臣として信長排除を試みる
柴田勝家は、大永2年(1522年)尾張国愛知郡上社村で、土豪、柴田勝義の子として誕生しました。生年については、大永6年や大永7年説もあり今一つはっきりしていません。
若い頃から織田信秀に仕え尾張国愛知郡下社村を与えられていたようで、信長が家督を継いだ頃にはすでに織田家重鎮だったようです。天文20年頃に織田信秀は死去すると、その遺言で信長の弟、織田信勝に家老として仕え、天文21年には尾張守護の斯波義統を殺害した清須城主織田信友と戦い、30騎を討ち取る武功を立てました。
やがて、信長と信勝で尾張の支配権を巡る争いが起きると、勝家は林秀貞と信長排除を画策、弘治2年(1556年)8月に勝家は、1000人を率いて信長と戦い、当初は信長を追い詰めますが、必死の信長軍の奮闘に結局敗北します。
信長は勝利の勢いで、末盛城と那古野城の城下を焼き払い包囲しますが、この時は、信長と信勝の生母の土田御前が、信勝の助命を嘆願したので、信長は包囲を解いて一度は信勝と和睦、ここで柴田勝家と林秀貞も信長に詫びを入れて許されました。
信勝の謀反を信長に告げて取り入る
しかし、信長に助命された信勝は、まだ独立を諦めておらず、竜泉寺城築城を開始したり、岩倉城の織田信安に通じるなど不穏な動きを見せます。
また、政治面でも勝家を遠ざけて、若衆の津々木蔵人を重用したので愛想が尽きた勝家は、信長に信勝の謀反を密告したのです。そこで、信長は仮病を使い信勝をおびき寄せて、家臣の河尻秀隆と青貝某なる人物に命じて暗殺させました。
織田信勝の遺児の津田信澄は、信長の命令により柴田勝家が養育しています。
ただ、信長は自分に槍を向け排除しようとしたばかりか主君の信勝を売った柴田勝家を警戒していて、その後の尾張統一戦争や桶狭間の戦い、美濃斎藤氏攻めでは勝家は用いられる事がありませんでした。
織田信長の上洛に合わせて再登板し手柄を立てる
柴田勝家が再登板するのは、永禄11年(1568年)織田信長の上洛作戦が始まってからです。
観音寺城の戦いで勝利してから、信長は柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じて桂川を渡河し三好三人衆の岩成友通が守る勝龍寺城を攻撃させます。
岩成は足軽衆を中心に応戦しますが、織田軍は馬廻り衆を乗り入れて、戦いを有利に進めて勝利、勝家も武功を挙げて、そのまま上洛し、勝家は一時、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚と京都の軍政を担当、その後、幕府奉公衆に引き継ぎし信長と岐阜に引き上げます。
永禄12年(1569年)1月に三好三人衆が本圀寺の変を起こすと、信長と共に再度上洛して、4月上旬まで京都と畿内の行政を担当しました。ここから分かるように柴田勝家は、武力一辺倒ではなく行政官僚としても才能があったようです。
対浅井長政戦で勝家に交通の要衝を任せる信長
元亀元年(1570年)4月、越前攻撃を目前にした織田信長は、義弟浅井長政が裏切った事を知ります。急いで京都に取って返した信長は、岐阜に帰城し、宇佐山に森可成、永原に佐久間信盛、長光寺に柴田勝家、安土に中川重政と、琵琶湖南部から東岸にかけて人材を配置しました。
これは、江北から南下してくる浅井氏に対して、信長が京と岐阜との通路を確保する為に配置した人員であり、つまり、早々簡単に寝返らないと見込んだ人材という事です。ここに柴田勝家が入っているという事は、この頃には信長の勝家への信頼が揺るぎないものになっていたという証拠なのです。
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