
うがいや手洗いは学校でもラジオやテレビでも聴かない日はない程、常識です。新型コロナウイルスを含む感染症の予防においては、うがい・手洗いの励行こそが最大の効果を上げると考えられている位です。
ところが、この常識は19世紀の後半には全く確立されてなく、医者でさえ手を消毒せずに手術をこなし、多くの患者が感染症で死んでいきました。
ハンガリーの産科医、センメルヴェイス・イグナーツは人類史上初めて、目に見えない感染症の正体に気づき、手洗い消毒を徹底し多くの妊婦を産褥熱から救った人物です。ところが、センメルヴェイスの発見は、19世紀の人々に理解されず異端として迫害されセンメルヴェイス自身も、非業の最期を迎えてしまうのです。人類の恩人は、どうして受け入れられず非業の最期を迎えたのでしょうか?
この記事の目次
1818年7月1日センメルヴェイス誕生
センメルヴェイス・イグナーツは、1818年7月1日にブダ近郊のタバーンで父、ヨージェフ・センメルヴェイスと母ミュラー・テレーズとの間に10人兄弟の5番目として誕生しました。
父のヨージェフはドイツ人で、スパイスと一般消費財の卸売りをする商売を開始して成功していて、その甲斐あってセンメルヴェイスは1837年にウィーン大学に入学し、法学を学び始めますが、翌年には医学に転向しました。
1844年に26歳で博士号を取得したセンメルヴェイスですが、内科の職につけなかったので産科を専門にする事にします。こうして、センメルヴェイスは医学の世界へと踏み込んでいく事になるのです。
1844年7月1日ウィーン産科医院研修医助手となる
センメルヴェイスの就職先は、ウィーン産科病院でした。当時の欧州では非嫡子が殺害されるという子殺し問題に対処すべく産科病院を急速に導入していて、恵まれない環境の女性でも無料で産科医療が受けられました。
ただ、当時設立されたばかりの産科病院なので、医師も助産師も経験が浅く、妊婦はなかば実験台になる事も込みでの診療でもあったのです。
1846年7月1日、センメルヴェイスはウィーン総合病院第一産院のヨハン・クライン教授の助手となります。当時のセンメルヴェイスの仕事は、教授の回診準備のために毎朝患者の検査を行い難産の指揮を執り、学生に教えるばかりでなく記録を取る係もしていました。
二つの産科の驚異的な死亡率の差
記録を取りながら、センメルヴェイスは奇妙な事実に気がつきます。それは、ウィーン総合病院にあった第一産科と第二産科の中で、第一産科では、産婦の10%が産褥熱などにより死亡しているにもかかわらず、第ニ産科での死亡率は4%と半分以下だったのです。
そればかりか、病院に行かずに自宅で子供を出産した産婦の産褥熱による死亡は第二産科の4%よりもさらに低いという衝撃のデータさえありました。この事実は妊婦の間でもすでに広まっていて、たのむから第二産科で分娩させて欲しいと医者の足にすがりついて懇願する妊婦までいたそうです。
センメルヴェイスは困惑します。
「命を守る為の設備が整っている産科病院で分娩を受けているのに、どうして産婦は家で分娩した方が死亡率が低いのだ?
病院の雰囲気が産婦の心に影響を与えているのか?それとも、男の医師に分娩の様子を見られる事に対する精神的抵抗が体力を弱めるのか?」
実は、センメルヴェイスは死亡率10%の悪名高い第一産科のスタッフであり、どんなに頑張っても下がらない第一産科の死亡率に苦悩し無力感さえ感じていました。
そこで、センメルヴェイスは、第一・第二産科の何が違うのか?仮説を立てて科学的に検証していきます。しかし検証で分かったのは、第一産科は医学生のための医院であるのに対し、第二産科は1841年に選ばれた助産師さけが勤務しているという事だけでした。
手についた微粒子が産褥熱を引き起こす事を発見
センメルヴェイスの苦悩に大きなヒントが与えられたのは、1847年の事でした。この年、友人の産科医ヤコブ・コレチカが産褥熱で死亡した患者の遺体の検体解剖を学生達に指導していた時に誤ってメスで指を傷つけてしまい、その後、ヤコブ自身が産褥熱によく似た症状を発症して死去してしまったのです。
センメルヴェイスは、ヤコブの死は、産褥熱で死んだ患者から媒介された微粒子にヤコブが感染して引き起こされたのではないか?という仮説を立てました。そして、第一産科が死体解剖の授業の後に産婦検診をするのに対し、第二産科では死体解剖の授業がない事に思い当たります。
つまり、第一産科で産婦の産褥熱による死亡率が高いのは、第一産科の医師と研修生が午前中に死体解剖の授業をした時に、その手に産褥熱を引き起こす微粒子をつけたまま手も洗わずに産婦の体に触る為であると結論付けたのでした。
ここでセンメルヴェイスがいう微粒子とは、現在では細菌と呼ばれているものですが、当時、発酵に関係するものとして、細菌そのものは発見されていたものの、それが病気を引き起こすという研究には至っていませんでした。
細菌が感染症を引き起こす事が証明されたのは、1847年から12年後の1859年、フランスの生化学者ルイ・パストゥールによる研究結果によってだったのです。
手指の消毒により死亡率0%を成し遂げる
センメルヴェイスは、自身の仮説の正しさを証明すべく、解剖室の仕事と妊婦検診の合間に次亜塩素酸カルシウムを使い手を洗浄する消毒法を提示します。
どうして、センメルヴェイスが次亜塩素酸カルシウムを選んだのかというと、産褥熱遺体を取り扱った後の解剖台の臭いを消すのに塩素消毒が最も効果的であった為で、次亜塩素酸カルシウムには、死体の有毒で汚染された粒子を消す働きがあるのではないかと考えた為でした。センメルヴェイスの試みは、産婦を苦しめた産褥熱から女性を救う福音でした。
1847年4月の時点で18.3%だった第一産科の死亡率は、センメルヴェイスの手洗い消毒が導入されたのちの6月には2.2%、7月には1.2%、8月には1.9%と劇的な死亡率の低下をもたらしたのです。さらに、解剖の場にも指導が入った事で、翌年には2回も月間死亡率0%を達成する快挙を成し遂げました。
人類の恩人の悲惨な最期
センメルヴェイスの仮説は、突き詰めると清潔さこそが産褥熱を撲滅する唯一の鍵というもので、それは、次亜塩素酸カルシウムによる消毒作業の結果起きた産褥熱死亡率の激減で証明されました。
しかし、センメルヴェイスの新説は四体液説が主流で、病気は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁、4種類の体液バランスが崩れる事で起こされると信じられた当時の医学の世界では、受け入れられる余地がありませんでした。当時の病気の主な治療法は瀉血で、血を抜く事で体液のバランスが取れるというものだったのです。
それ以上に、当時の医師の反感を買ったのは、医師の手が微粒子で汚染されて不潔であるというセンメルヴェイスの発言によるものでした。
社会的にエリートの地位にある自分達の手が、微粒子とかいう病気の媒介をしているというモノ言いに医師たちは感情的に反発したのです。また、時代の制約でセンメルヴェイスは、産褥熱を引き起こす微粒子が確かに存在するという科学的な証明は出来ないという致命的な弱点を抱えていました。
センメルヴェイスの微粒子説を批判する医師たちには、微粒子がオカルトや魔術の類と変わらない中世への逆行に見えていたのです。反微粒子説の医師もまた、感情的な批判や無理解だけでなく、実証主義の見地からセンメルヴェイスを批判していました。
センメルヴェイスも闘争心旺盛な人で、自分をバカにし批判し、こき下ろす医師や医学者に、質問状を叩きつけて論争しましたが、病院の職を失い非難が殺到するに従い精神のバランスを崩して奇行が増え、1865年に無理やりに精神病院に入れられました。
そして、病院からの脱走を図って数人の衛兵に発見されてひどく殴られ、さらに拘束衣を着せられて暗闇の独房に監禁されるなどし、右手の傷の壊疽が元で47歳で死去します。人類の恩人のあまりにも報われない最期でした。
世界史ライターkawausoの独り言
もう少しセンメルヴェイスが長生きしていれば、彼が微粒子と名付けた存在が細菌と証明され、消毒という感染症に対する有効な手段を産み出した人類の恩人として世界中の賞賛を浴びたでしょうに運命は残酷でした。
しかし、センメルヴェイスの業績は現在の医学にも受け継がれ、私達は消毒という方法で、恐ろしい感染症の恐怖から逃れられるようになりました。この事実こそ、センメルヴェイスが本当に願った研究の成果なのです。
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